中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

「トロイの木馬」のようにがん細胞を攻撃

さて、静脈注射によって血管に投与された高分子ミセルが、目的のがん細胞にたどり着いて治療効果を発揮するのはどのような仕組みなのだろう?

「まず、血管内をぐるぐる回っているときに、異物を見つけて処理する細胞によって分解されてしまわないような、ステルス性能が重要です。そのためのお手本が身体のいろいろな部位に侵入していくウイルスです。ウイルスは約100ナノメートルなのでそれ以下にすることが必要だろうと考えました。10ナノメートル以下では腎臓で排出されてしまいますから、その中間のサイズを設定しました。また、異物として排除されないようカプセルの表面を修飾し、生体適合性を高めておく必要があります。高分子ミセルなら凝集力高く、血中でも安定なのです」

仮に100個のミセルを投与して10時間後に50個残っているためには、心臓から送り出されて身体全体をめぐり99.99個が戻ってくるような精度が必要となる。
「ステルス化一つとっても、最先端の半導体工場で達成されるようなテクノロジーが結集しているんです」と片岡先生。

血管内で無事生き延びたあとは、がん細胞を退治するために血管の外に出なくてはならない。
「私たちの血管の内側は内皮細胞で覆われていますが、血管と細胞の間には酸素や栄養素を通す小さな隙間(孔)があいています。この隙間が、がん細胞は急激に成長し増殖するため血液からたくさん栄養を取り込む必要があり、がん細胞の周囲だけ血管の目が粗くなって透過性が高くなっているのです。そこで、健康な組織の孔は通り抜けられないけれど、がん組織の近くでは血管の外に出られるようなサイズの高分子ミセルを設計すれば、がん細胞だけを狙い撃ちすることができます。一般的な抗がん剤の場合は、健常な血管の隙間も通り抜けてしまうため、がん細胞以外の細胞にも作用して副作用などが起きてしまうわけですね。研究を続け、50ナノメートル以下の高分子ミセルの開発に成功しました」

こうしてがん細胞にたどり着いた高分子ミセルの次の仕事は、内包している抗がん剤をがん細胞に放出し、がん細胞を攻撃することだ。
「しかし、特に耐性がんなどの場合は、がん細胞自身にも外敵を防御する機構が備わっています。抗がん剤であれば、がん細胞の核に到達する前に、タンパク質によって薬効を解毒してしまうのです。高分子ミセルが細胞に侵入しても、やはり異物としてエンドソームという膜に取り込んでしまいます。このままでは膜に包み込まれてしまって薬剤が効きません。

ところがエンドソームの中のpHは、核に近づくにしたがって低下していき、5くらいになります。そこで、pHが5くらいに低下した状態の時に、周囲の環境変化に応答して高分子ミセルが壊れるよう設計しました。これによって、高分子ミセルに封入されている抗がん剤が、エンドソームの膜を破り、がん細胞の核に向かって放出されるのです」

細胞内に忍び込んだ高分子ミセルががん細胞の核の近くで薬剤を発射するんだよ

片岡先生は、体内の防御システムに気づかれずに侵入してがん細胞をやっつけるこの高分子ミセルのナノマシンを、ギリシャ神話の「トロイの木馬」*になぞらえている。
「敵の手で本殿にまつられたトロイの木馬から兵士が現れたように、血液の流れに乗ってがん細胞にたどり着いたナノマシンが、そこの環境を感知してがんを征圧する薬剤でがんに総攻撃をかけるのですから、トロイの木馬そのものです」

*トロイの木馬
ギリシャの詩人ホメーロスが叙事詩『イーリアス』で伝えている、トロイ戦争を終結させた大きな木馬のこと。紀元前12世紀、ギリシャ軍は小アジアのトロイと戦ったが、戦いは10年にもおよび、ギリシャの攻撃は行き詰ってしまった。そこで、ギリシャ軍は一計を案じ、兵士が入った大きな木馬をつくってトロイに献上し、勝利を諦めて帰郷したように見せかけた。トロイ人が祝宴のあと寝静まったころ、隠れていた兵士が木馬から飛び出しトロイを全滅させたという。

現在のがん医療で困難を極めているのが薬剤の到達効率の低いがんや薬剤に耐性をもってしまったがん、転移性がんだが、こうした難治性がん治療についても、片岡先生が研究を進める高分子ミセルは大きな可能性を持っているという。
「たとえば、すい臓がんはがん細胞のまわりを厚い線維組織が覆っているため薬剤がなかなか到達できず5年生存率が最も低いがんです。ミセルを30ナノメートルまで小さくすることによって、がん細胞内部にまで薬を到達させることができるようになりました。現在すい臓がん患者を対象とした治験を行っていますが、標準治療では延命効果が3か月のところ、全例で生存期間が1年以上という結果が出ました。また、転移がんに関しても、ミセル製剤を使うことで、がん細胞に選択的に薬剤を放出し、リンパ節転移が抑制されるというデータが出ています」


左はすい臓がんにかかったマウスのがんの進行を示したもの。白金抗がん剤内包ミセルをマウスに投与したところ、白金抗がん剤だけの投与では抑制効果が見られなかった肝臓や小腸への転移やがん性腹水を完全に抑制した。また生存日数を見ると、白金抗がん剤単独での治療では、70 日後のマウス生存率は 20%以下だったが、抗がん剤内包ミセルによる治療では全匹生存するなど、生存期間が大幅にのびた。

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