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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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第51回 植物の生長と再生を制御するメカニズムを追って 理化学研究所 環境資源科学研究センター 細胞機能研究チーム チームリーダー 杉本慶子

理化学研究所で細胞機能研究チームのチームリーダーを務める杉本慶子先生は、国際基督教大学教養学部出身。大学院の修士課程1年次に参加した国際学会で「サイエンスの舞台は世界だ」と実感、日本を飛び出し、オーストラリアで博士号を取得して世界でも有数の植物科学の研究所である英国のジョンイネスセンターで研究に従事。12年にわたる海外生活の中で結婚、子育てを経験して帰国。現在は、チームを率いながら植物の生長と再生のメカニズムの探求を続けている。先生が植物研究の道に進む原点となったのは、高校生時代、庭に咲いていた100本のユリだという。

profile

杉本慶子(すぎもと・けいこ)
広島県出身。1989年国際基督教大学教養学部理学科(当時)入学。3年次にアメリカカリフォルニア大学(デービス校)に交換留学。93年卒業。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了後、オーストラリア国立大学大学院に進学。2000年PhD取得(植物科学)。同年、植物研究の最高峰ジョンイネスセンターでポスドク。JSPSフェロー、グループリーダーを経て、07年7月から理化学研究所に。現在、東京大学大学院理学系研究科の教授も兼任。

自然に囲まれて過ごした小中高時代

———ご出身は?

広島県の府中市です。中国山地の山あいの町で、自然に囲まれて過ごしました。父はもともと天文学者になりたかったけれど、家業を継ぐために学者になることをあきらめたと聞いたことがあります。そのため私は4人きょうだいの長女でしたが、父からは「お前は好きなことをやっていい」と言われました。心の中で自分が果たせなかった夢を託す気持ちがあったのかもしれませんね。

———とすると、小さいころお父さまと、天体望遠鏡を持ち出して星を観察していたとか?

たしかに星の観察もしましたけど、それより覚えているのは、毎週日曜になると父に連れられて裏山を歩き回ったことですね。そして、どの植物が食べられるかとか、いろいろ教えてもらいました。
庭にもツクシやフキノトウがたくさん生えていて、大きな栗や、イチジク、モモ、ウメの木など食べられる実のなる木がいっぱい。大学進学で上京したとき、スーパーでイチジクが1パック数百円で売られているのを見てびっくりしました。私にとってイチジクは、木に登っておなかいっぱい食べるものでしたから。
裏山には竹林もあって、竹は地下茎が伸びて増えていくので、きちんと整備しないとどんどん竹が生えてきて大変なことになってしまう。だから小学校のころは、タケノコの季節になると学校に行く前の朝6時ごろ起きて、きょうだい4人で祖父と一緒にタケノコ掘りに行くのが日課でした。多いときで1日50本ほど掘るので子どもにとってはけっこうな労働でしたが、タケノコ掘りのおもしろさを体感しました。地面から頭を出していてはもう遅いんです。柔らかくておいしいタケノコを取るためには土の中に埋まっている段階で収穫しないといけないので、トコトコと歩いてちょっと足の裏に当たるのを探すんです。それで、「あっ来た!」と掘り出すわけ(笑)。

———宝探しみたいですね。

もう完全に宝探しですよ。地面から先端部が出るか出ないかの状態から、まわりをきれいにかき分けていく。これ、サイエンスと同じなんです。今でも研究していて何か発見があったとき、「あっ来た!」という瞬間はタケノコ掘りにつながるものがあります。発見の喜びですね。

———通学は大変じゃなかったですか?

小・中・高校と地元の学校に通いました。小学校なんて、家からすごく近くて、学校の鐘が鳴っているのを聞いてから行っても間に合うくらい。のどかなものでしたね。何しろ広島県出身ではありますが、広島市に行ったのは20歳になるまでに2回だけじゃないかな。東京へも修学旅行で一度行ったくらい。子どもにとってはただただ幸せな時間が流れている田舎が好きでした。今も子どもを連れてときどき帰省しますが、ほとんど変わっていませんし、今でも大好きな場所です。
両親からはいろいろなことを教えてもらいました。たとえば中国山地は鍾乳洞が多く、そういうところへ行っては石を集めてきて、名前を同定して標本づくりをしたりもしました。祖母から教わったのは薬草の名前や効用です。小学校1年の夏休みの自由研究では、山を歩いて薬草を見つけては押し花に。もちろんセミの脱皮の観察などもしましたが、やはり植物が好きでした。身近にずっと植物があったからかもしれません。

———将来、研究者になりたいと考えていましたか?

あのころはまったく考えていませんでしたね。自由奔放というか、興味あることに出会って、それにハマったらとことん止まらないという感じでした。将来何になりたいといった目標に向かってというのではなく、好奇心のおもむくまま、いろいろなことに興味を持って、その仕組みを理解したいという気持ちが強かったのだと思います。自然に対してだけでなく、高校時代は言葉の成り立ちとか、言語学などにも興味を持っていました。本を読むのも好きで、高校時代に読んだ中では、ファインマンの物理学の本や、動く遺伝子を発見したバーバラ・マクリントックの本などが印象に残っています。
とにかく、本は手あたり次第という感じで、小学校のころから父が定期購読していたビジネス誌の「プレジデント」に載っていた戦国武将の処世術などを楽しみにしていたほどです。

———そのようにいろいろなことに興味を持っていたとすると、大学進学で文系か理系か迷いませんでしたか?

学校の科目は基本的にどれも好きで、自分が文系か理系かを意識したこともなかったので、大いに悩んで、あるとき担任の先生に相談に行ったんです。「将来、何をやりたいかわからない」って。私はとても深刻だったのに、先生は「お前は心配するな。このままやっていけば、どんな道に進んでも、ひとかどの者にはなれるから、大丈夫だ」と・・・。今でもあのとき言われた「ひとかど」ってなんだったのかなあってときどき思い出します (笑)。

———アドバイスはもらえなかった。

そんなとき、父が生命科学者の中村桂子さんの本を買ってきてくれました。それで「これからはバイオの時代だぞ。バイオに行ったらどうだ」と言われて、その一言ですよね。じゃ、理系にしようと決めました。
もうひとつのきっかけは、庭に咲いていた白いヤマユリの花です。ちょうど勉強している部屋の窓から見える場所に、ある年、3本だけ咲いていたんです。次の年にまたちょっと増えて10本ぐらいになって、年を追うごとにどんどん増えていって、高校生のときはとうとう庭中に100本ぐらいユリの花が咲くようになりました。毎年、ユリは花を咲かせるけれど、あの形はどのようにつくられるのだろう。その謎をひもといてみたい、とふと思ったのです。

———国際基督教大学(ICU)に決めたのは?

忘れもしません、高校3年生の秋、進路指導室で進学情報誌をパラパラとめくっていたらICUのページに秋の木漏れ日があたって、同校が教育の特徴として掲げる「リベラルアーツ」の文字が目に飛び込んできたんです。そのとき、「あっ、私の行くところはここだ!」って瞬間的に思いました。
実は薬草にもすごく興味があって、「東洋医学の薬草の効用を西洋科学の言葉で説明したい」と、東西医薬学の融合を理念に掲げる富山医科薬科大学(現・富山大学医学部・薬学部)も受験して合格していて、迷いはしたのですが・・・。

———リベラルアーツとは、文系、理系の区別なく幅広い知識を学び、そうした豊かな教養をベースに専門性を深めて創造性を発揮していこうとする学際的な分野ですが、ご両親は医学部に行けとはおっしゃらなかったのですか?

むしろ、ICUでもう少し広く学んで、どうしても医学部に行きたくなったら転学すればいいと言ってくれ、それで最終的にICUに決めました。