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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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第58回 30歳でスタートした研究の道 本庶研での14年間を経て、独自のテーマに挑む 東京大学 定量生命科学研究所 免疫・感染制御研究分野教授 新藏礼子

2人の子どもを育てながら麻酔科医として病院勤務していた新藏先生が、研究者をめざして大学院に進んだのは30歳のとき。2018年にノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑先生の研究室だった。そこで抗体と出会い、独立後は抗体と腸内細菌叢との相互作用を研究している。なぜ研究者をめざしたのか?子育てしながらの苦労は?研究のおもしろさとは?

profile

新藏礼子(しんくら・れいこ)
京都府生まれ。86年京都大学医学部医学科卒業。同年麻酔科臨床医として病院勤務。92年京都大学大学院医学研究科分子生物学大学院生、続いて研修員。99年米国ハーバード大学こども病院留学。2003年京都大学大学院医学研究科分子生物学、寄附講座免疫ゲノム医学助手、講師、准教授。10年長浜バイオ大学バイオサイエンス学部バイオサイエンス学科生体応答学教授。16年奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科応用免疫学教授。18年東京大学分子細胞生物学研究所(現・定量生命科学研究所)免疫・感染制御研究分野教授。
HP:https://www.iqb.u-tokyo.ac.jp/shinkuralab/index.html

白雪姫より魔女がおもしろそう!

———どんなお子さんでしたか?

小学校のころはとにかく生真面目で、授業でも先生の言うことを一言一句、聞き逃すまいとしていました。親からは「おまえは親の言うことより先生の言うことしか聞かないね」と言われたほど(笑)。
中学受験のため塾に行ったのですが、塾では学校で習っていないことを教わりますよね。でも私は「学校で習ってないことを先に習うなんてずるい」と納得できなくて、どうしても熱心になれなかった。それで受験は失敗。
それは学校のテストでも同じで、テストの問題に先生が言ってないことが出ていると、「これ、先生言ってないじゃん」とわざと先生が言ったところまでしか答えない。そんな子でしたね。ばか正直というか、頑固というか…(笑)。

3歳のころ、父・弟と

———中学ではいかがでしたか?

中学受験に落ちて、わかったことがありました。それは、勉強というのは教えてもらってやるのではなく、自分でやるものなのだということ。だから中学に行くようになってからは勉強のやり方を変えて、もちろん先生の言うことも聞くけれども、それより自分で勉強することを大事にしようと思うようになりました。その気持ちはいまも同じです。だれかが言ったからそれに合わせて何かをするというのは基本的に嫌いですね。

———そう思うようになったのはご両親の影響もありますか?

母からはよく「人と違うことをやりなさい」と言われました。他人と違うのがいいことだ、といった考えが、母にはあったようです。

———お父さまは?

父は生理学の基礎研究者でした。その後、臨床に移りましたが自分ができる研究は続けていて、そんな父を見ていたためか、子どものころから「将来は研究者になりたい」と思っていました。
たとえば白雪姫の本を読んでいても、普通だったらお姫さまに憧れると思うんですが、私には魔女のほうがずっと興味深かった。フラスコを振る魔女の姿に憧れたし、鍋の中には何が放り込まれたんだろうか、どんな毒ができるのか、毒リンゴを食べて死んだのに何で生き返るのか?と次々に疑問が浮かんでくる(笑)。幼稚園ぐらいのときからそんなふうに思っていました。

———大学の学部はどのように選んだのですか?

高校のころは、研究者になりたいから理学部に行こうと最初は思っていたのです。でも、父に研究者になりたいと話したところ、「科学というのは人類の発展に貢献する一方で、使い方次第では人類を滅ぼすことにもなりかねない」と言って渡してくれたのがイギリスのバートランド・ラッセルの著書でした。彼は数学者であり哲学者でもありましたが、第二次世界大戦の経験から、アインシュタインとともに核兵器の廃絶を主張する「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表したことで知られています。バートランド・ラッセルの本を読み、父から「研究者になるのはいいが、人間というものを知らないで研究するのはよくない。研究の前に人間について勉強することが大切だから、まず医学部に行ったらどうか」とアドバイスされ、「ああそうか」と思って医学部を志望することにしたのです。