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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

「恐怖のにおい」が生命保護能力を呼び覚ます~関西医科大学・小早川高先生を訪ねて~

においと心や行動がどうつながっているかを研究しているのが小早川先生。動物に先天的な恐怖を感じさせるにおい分子群を発見。それを嗅がせたマウスが、体をすくめるだけでなく、致死的な低酸素状態での生存能力が上がることをつきとめた。このメカニズムを利用して、においを活用したヒトの病気の治療薬を開発しようと挑戦中だ。

小早川 高(こばやかわ・こう)

関西医科大学 附属生命医学研究所
神経機能部門 准教授

1973年愛知県生まれ。96年東京大学理学部生物化学科卒業。2002年同大学大学院理学系研究科生物化学専攻博士課程修了。理学博士。科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業(CREST)研究員を経て、07年東京大学大学院理学系研究科特任助教。09年大阪バイオサイエンス研究所研究員。16年より現職。10年に脳科学香料株式会社を設立し、嗅覚研究の成果を応用した機能性におい分子を活用する事業も進めている。08年第1回湯川・朝永奨励賞。10年第10回バイオビジネスコンペJAPAN最優秀賞。

ショートムービーで見る研究のあらまし

ネコを怖がらないマウス

新型コロナウイルスに感染すると、味覚障害になることがあるという。味覚といっても多くは嗅覚の障害で、においが感じられなくなることもあれば、「何を食べてもガソリンのにおいがする」といった異臭症の場合もあるらしい。においがわからなくなるのはイヤだなぁ、においは生きる歓びを味わうためには欠かせないと考えていたら、先天的な恐怖を引き起こすにおいを使って、私たちが潜在的にもっている生命保護作用を刺激し、ヒトの病気治療に役立てようという研究をしている人がいるという話を耳にした。

そんな驚くべき発想で研究に取り組んでいるのは関西医科大学の小早川高先生。さっそく訪ねて挨拶すると、先生の名刺に載っていたのは、ネコの鼻先に顔を近づけているマウスの写真だった。

え、なんでこのマウスは逃げないの??

「この写真は、とびきりおとなしいネコを借りてきて撮ったものです。ネコに鼻先をくっつけているマウスは、鼻の中のにおいを嗅ぐ神経細胞の一部を除去した遺伝子改変マウスで、天敵であるネコのにおいを感じることはできるのに、怖いと思って逃げたり、すくんでしまったりしないのです。
このマウスは私たちに、ネコのにおいが怖いのは、遺伝子が先天的に決めていることを教えてくれました。この研究は、2007年11月にNature誌に掲載され、アニメの『トムとジェリー』*のようだと大きな反響を呼んだんですよ」

*トムとジェリー:1940年代に誕生したアニメーション。ネコのトムとネズミのジェリーが、毎回いろいろな追いかけっこを繰り広げるドタバタコメディ。
https://wwws.warnerbros.co.jp/tomandjerry/index.php

天敵のにおいだけでなく、食べ物の腐敗臭などのイヤなにおいを避けることもしなかった。嗅がせたあとに痛みを与え、においと痛みを関連付けて学習させると忌避行動が取れるようになることから、この遺伝子改変マウスは、においを感知はできるけれど、その意味がわからないのだということが明らかになった。

これまで、納豆やブルーチーズのような腐敗臭や発酵臭のある食べ物は、人によって好き嫌いがあるし、育ってきた環境によっても違うので、においによる行動は学習などによって後天的に決まるのではないかと考えられてきた。しかし、先生たちの研究によって、においによる行動の中には先天的にプログラミングされている場合があることが初めて証明されたのだ。
「もちろん天敵に追いかけられて怖かったと学習するという側面もあるかもしれませんが、学習する前に食べられてしまってはリスクが高いですよね。また、納豆は食べ物だということを学習すれば食べられるようになるけれど、納豆自体が少し腐ったにおいがするという感覚そのものが消えてしまうわけではないでしょう。だから、においによってどう感じ、行動するかというのは、先天的な情報と後天的な情報を合わせたものだと考えられます」

先天的な恐怖の匂いを感知する嗅細胞は、鼻腔の中で最もはやく外気が到達する場所に存在する。
「においを嗅いでそれをどう感じるかは、常識的には脳の中枢に情報が伝達されてより高次な判断をすると考えますよね? ところが、われわれの実験からは、脳に行く前の鼻の中の細胞レベルで、すでにどう感じるかが決まっているらしい。天敵が危険であることや、腐っているかどうかなどの命にかかわることは、脳に送って判断するよりも、鼻の段階で判断したほうがはやいし、生き物が生きていくうえで重要だということではないでしょうか」

背筋が凍る、人工恐怖臭を開発

においと行動の関係をさらに探究しようと考えた小早川先生たちは、マウスにさまざまなにおいを嗅がせて実験してみた。
「マウスの天敵であるキツネの排泄物に含まれる『トリメチルチアゾリン(TMT)』というにおい分子によって引き起こされるすくみ反応(フリージング)*は、電気ショックなどの痛みとの関連によって引き起こされるフリージングと比べると弱いのです。でも自然界にあるものだけが最も強い行動を誘導できるとは限りません。われわれが気づいていないだけで、もっと強い行動を引き起こせる可能性があるのではないかと考え、人工化合物ライブラリーの中からTMTと似た構造の匂いを片っ端から嗅がせて、きわめて強力なフリージング行動が引き起こせる化合物をスクリーニングしました。それをマウスに嗅がせてどれぐらいフリージングするかを調べたところ、強力なフリージング行動が誘発できることがわかりました」

*すくみ反応(フリージング):動物の恐怖反応の一つで、体を動かさずにしばらくじっとしている行動のこと

こうして見つかった一群のにおい分子が「チアゾリン類恐怖臭」だ。
「非常に便利で、動物にこのにおいをポンと嗅がせると、きれいにすくんで動かなくなる。何もしていないというより、積極的にじーっと止まっているわけです。動かない行動、と言うと変ですが、天敵がいたときは物陰でじっとしていたほうがいいわけで、動かないという重要な行動を、チアゾリン類恐怖臭で誘導できることがわかりました。しかも、濃度の濃い薄いや、電気ショックと関連づけて学習させたにおい分子による後天的な恐怖の際の脳の活性化パターンを比べると、チアゾリン類恐怖臭は、先天的な恐怖と非常に強くリンクしている恐怖臭であることがわかってきたのです」

チアゾリン類恐怖臭を嗅いだマウスの体温変化をサーモグラフィーで調べると、背骨周辺の温度が下がっていった。恐怖を感じてぞっとすることを「背筋が凍る」というが、文字通りの背筋が凍る恐怖をマウスが感じたといえるだろう。

上段は、小早川先生たちが開発した先天的恐怖のにおいを嗅がせたマウス、下段は後天的恐怖のにおいを嗅がせたマウス。いずれもにおいを嗅がせるとフリージングするが、上段は、背筋を中心とした体表面温度がぐんぐん低下していくことがわかる。

先天的恐怖臭を嗅いだマウスの背筋の体温がどんどん下がってる!
「背筋が凍る」って、ホントなんだ!

しかもこの恐怖臭に慣れることはないのだという。
「例えば毎日1回ずつこのにおいを嗅がせて、1週間か10日経つとすくみが出なくなるかというと逆で、むしろフリージングがより強くなる。痛みに慣れることがないように、この恐怖臭に慣れることは難しそうです」

恐怖のにおいで人工冬眠状態に!

2021年4月、小早川先生のグループは、高濃度のチアゾリン類恐怖臭を長時間マウスに嗅がせると、マウスが人工冬眠状態に誘導でき、生存能力が高まったと発表した。

「通常なら10~15分ほどで死んでしまうような低酸素状態でも、チアゾリン類恐怖臭で刺激したマウスは、すべての個体が2時間以上生存し、最も長い個体では6時間、平均231.8分も生きていたのです。恐怖臭で低体温になることは先ほど紹介しましたが、代謝も落ちるし、心拍数も下がります。ちょうど、冬場にクマが冬眠するのと同じような低体温・低代謝状態だったために、酸素の少ないなかでも長時間生存できたのだと思います」

冬眠と異なるのは、冬眠は資源が限られた環境下で生き延びるために、エネルギー消費を抑えることを目的としているのに対して、チアゾリン類恐怖臭で誘発される低体温・低代謝状態は、危機的な状況下で生き残るために引き出されたもので、必要に応じてエネルギーに変換される場合があること。例えば、冬眠中はグルコースの取り込みがほぼ完全に抑制されるが、恐怖臭の場合は、著しく上昇する。また恐怖臭を嗅いだマウスの血液中では自然免疫を担う免疫細胞の数が増加し、病原体への抵抗性も高い状態になるという。

皮膚や脳への血流を阻害した病態モデルのマウスに恐怖臭を嗅がせると、強力な保護作用があることも確認された。
「マウスの皮膚を磁石で挟んで12時間血流を止めると傷ができますが、恐怖臭を嗅がせたマウスでは傷がほとんど発生しませんでした。また脳への血流を30分停止させると、脳の広い領域が破壊されますが、恐怖臭を嗅がせると、脳の破壊が大幅に抑制されるのです」

低酸素状態での生存時間の比較

4%という致死的な低酸素環境でも、あらかじめチアゾレイン類恐怖臭で刺激したマウスは、長時間生存した。

血流を止めて生じる障害の比較

上段は皮膚の血流を12時間停止した場合。におい刺激がない場合は皮膚に傷が発生するが、恐怖臭で刺激したマウスでは、皮膚はあまり傷ついていない。
下段は脳への血流を30分間停止した場合(青矢印は破壊された部分)。におい刺激がないものは脳の広い領域が破壊されたが、虚血後30分後ににおい刺激を行うと、脳の破壊が大幅に抑制された。

ではいったいどういうメカニズムで、こうした生命保護作用が誘導されるのだろうか?
「全脳活性化マッピング*を使い、チアゾリン類恐怖臭のにおい分子が、三叉神経**や迷走神経***にあって全身の状態をモニターしているセンサー受容体TRPA1に結合することで、脳幹から中脳にある危機応答中枢を活性化させ生命保護作用を誘導することがわかっています。ただ、免疫状態や代謝状態を調整するなどの体にインパクトを与えるメカニズムや、脳が活性化するとなぜ生命保護作用が高まるのかの詳細についてはまだ解明できていません」

*全脳活性化マッピング:マウスの全脳領域の脳活動を、神経活動を反映するマーカーの発現を指標にして、どこが活動しているのかを細胞レベルで解析する方法。小早川先生の研究室ではこの大半の過程を自動化処理することで迅速化する方法を開発した。

**三叉神経:脳幹から左と右に1本ずつ出ており、それぞれが、額、頬、顎の3方向に枝分かれして伸びている神経で、顔に触れるものを感じる感覚と温度などを感じて脳に伝える。

***迷走神経:感覚神経・運動神経の一つで、内臓(胃、小腸、大腸や心臓、血管など)に多く分布し、体内の環境をコントロールしている

「においで治す」薬を開発したい

小早川先生たちが現在取り組んでいるのは、この強力な先天的恐怖行動を誘導するチアゾリン類恐怖臭をさまざまな用途に応用することだ。

「一つには、ネズミの忌避剤です。有史以来、ネズミの被害は甚大で、都市部においては飲食店などの汚染、伝染病の媒介、さらには電線などケーブルを噛むことで停電や火災までも発生させています。また農作物を食べるのはもちろんのこと、カリフォルニアなどの乾燥地帯を灌漑するチューブをかじってしまうと、水が行き渡らずに農作物が枯れてしまうという被害が数多く発生しています。ネズミは哺乳類なので、昆虫に対するように殺虫剤を使って駆除するのはなかなか難しかったのですが、われわれが開発した恐怖臭を使えば強力な忌避効果を発揮するはずです。におい分子は揮発性なので、いかにして屋外で長時間持たせるかなど、実用化に向けた開発を進めています」

チアゾリン類恐怖臭は、ネズミ以外にも、林業や果樹栽培、農業などに被害を与えているシカやイノシシでも忌避行動をみせることがわかっていて、こうした野生動物への応用も期待されているという。

「さらに、今やろうとしているのは、ヒトの病気への応用です」と小早川先生。
「TRPA1というセンサー受容体は、マウスだけでなく、ヒトも含めた哺乳類にはみなありますし、さらには昆虫や線虫も持っています。TRPA1を活性化することによってネズミの場合はフリージングや忌避行動を示すのですが、それ以外にもいろいろな生理応答を誘導できることがわかっています。
ヒトも動物も、危機状態で体を守るための保護作用を進化させてきたはずです。ある脳領域ににおい情報という感覚刺激を送ることで、生命保護作用を人為的に誘導できれば、これまでにない薬が開発できるはずです。
実はチアゾリン類恐怖臭にはいろいろな種類があって、フリージング行動を非常に強く誘導するとか、代謝だけを下げるとかいくつかのグループに分けられます。においの秘密をさらに探究していくことで、望む生理応答を引き出せるようになると考えています」

小早川先生がヒトを対象にした治療薬のターゲットとして考えているのは、敗血症、心筋梗塞、脳梗塞などの疾患という。敗血症とは、細菌やウイルスなどに感染した結果、炎症が全身に影響を与えさまざまな臓器が機能不全に陥るもので、毎年、世界で約3000万人が敗血症を発症し、3人に1人が亡くなっているといわれる。心筋梗塞、脳梗塞も、全世界の死因の1位、2位を占める重篤な疾患だ。
「これらの病気で多くの人が亡くなっていますが、治療するのはかなり難しく、完全に確立した治療法はありません。動物モデルではこれらの疾患に対して非常に強い治療効果を得られるということがわかっているので、ぜひともヒトの治療技術の実用化をめざしていきたいと考えています」

小早川先生は、生物が進化の過程で獲得した潜在的な生命保護作用を、においという感覚刺激を使って活性化する薬の開発を「感覚創薬」と名づけ、研究開発を進めている。

におい研究はおもしろい

小早川先生が大学生だった90年代後半のころは、ちょうど遺伝子を操作して生体の中の遺伝子の機能を解明する研究が盛んになってきた時代。人工知能にも物理にも天文学にも興味があったという小早川先生だが、東大理学部生物化学科に進み、におい研究の第一人者である坂野仁(さかの・ひとし)教授のもとで研究を始めた。
「最初のころは、においを感知する神経回路がどうやってできるのかとか、遺伝子発現がどうなのかを研究していました。そのうち興味を持つようになったのが、においと心、においと情動の関係で、哺乳類の脳がにおい情報の意味や価値をどのように処理し、情動や行動を引き起こしているか、そのメカニズムを解明する研究に取り組むようになったのです」

におい分子が強力な生理作用や行動を動物に与えることがわかり、その作用を追求していくうちに、においにはこれまで考えられてきた以上に、生死を分けるような問題にも効果があるのではないかとアイデアが次々に湧き出して研究を発展させてきたという。

「もしかしたらPTSDなど、恐怖情動と記憶の関連付けがおかしくなった状況を元に戻すこともできかもしれません。また新型コロナ感染症での嗅覚障害が話題ですが、例えば脳の進行性の病気、アルツハイマー病とかパーキンソン病の患者さんは、疾患を発症する前に嗅覚障害が起こる場合が多いんですね。においって身近な割には、ニッチというか研究者も視覚や聴覚より少なくて、記憶との関連なども徹底的に調べられている例は実はあまりないので、探究すればいろんなことがわかってくる可能性があるのではないかと思います。私たちがにおいを感じるのは、におい分子が鍵と鍵穴のように受容体に結合して、複数の組み合わせによってにおいを認識するとされていますが、化学的に異なる形状の分子でも同じにおいがする場合もあれば、ほぼ同じ形状でも異なるにおいがすることもあり、受容体が振動の仕方によって刺激されるのだという説もあったりして、基本的なことすらよくわかっていないことも多いのです。においや脳の研究は、いまだにわからないことだらけなんですよ」

出てきたデータを眺めていて、その裏に潜むルールを見つけたときが一番ゾクゾクするという小早川先生。中高校生にもぜひ、世界で自分だけの発見をする喜びを感じてほしいと呼びかけている。

においや脳の研究は、わからないことだらけなんだって!