この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」第3回 組織工学の手法で、気管再生に取り組む ハーバード大学 組織工学・再生医療研究室 小島宏司 准教授

組織工学と出会い、バカンティ教授のもとへ

───なぜアメリカに渡ったのですか。

私は呼吸器外科を専門にしていましたが、気道狭窄などでなくなる人になかなか有効な治療法が見つからなかったのです。たとえばがんで腫瘍が気管内で大きくなると、息がしにくくなります。金属の筒のようなステントを入れて気道を広げる治療法はその場しのぎで、根本的な治療になりません。そこで、人工の気管をつくることを考え、再生医療に注目していたのです。
1998年に日本組織工学会の第1回会合が名古屋で開かれたとき、再生臓器の開発で世界的に知られるチャールズ・バカンティ教授が出席されていて、話をさせていただくことができました。あとから詳しくお話ししますが、バカンティ教授は、自分の細胞と体内で吸収される材料を工学的な手法で組み合わせて生きた組織をつくる「組織工学(ティッシュ・エンジニアリング)」の創始者だったのです。
私は、“これこそ自分が求めている研究だ”と直感して、その学会が終わってから米国のバカンティ教授に“先生のもとで研究がしたい”と、手紙を書いたのです。最初は返事をもらえませんでしたが、99年に“給料は出ないがそれでもよければ来なさい”と承諾の返事をもらえました。勤め先の聖マリアンナ医科大学病院に相談したところ、留学扱いとして給与は2年間出してくれるとのこと。そこで単身、アメリカに渡ることを決意しました。
ただ、今だから白状しますが、実は私はバカンティ教授が、そんなに偉い先生だとは知らなかった。渡米して初めて、とんでもなく偉い先生だと知ったんですよ(笑)。

バカンティ教授は、耳の形をした骨組みに細胞を付着させ、それをマウスの背中にとり付けたことで有名だ。

バカンティ教授は、耳の形をした骨組みに細胞を付着させ、それをマウスの背中にとり付けたことで有名だ。

───最初は米国のどこで勉強されたのですか。

バカンティ教授はマサチューセッツ州立大学ウースター校の主任教授だったので、私はボストンの西にあるウースターに住むことにしました。ところがウースターは白人ばかりの田舎町で、日本人はもちろんアジア人などほとんど住んでいない。そのため、英語の下手な外国人への対応の仕方がわからないんです。私は英語は苦手でしたから、日常会話はたいへんでした。
あるとき、ケンタッキー・フライドチキンに行って注文したら、「ホワッツ・サイズ?」って聞かれたんです。私は大中小のサイズだと思って返事をしたのですが、意味が通じない。そのうち、売り子が怒ったように何度も「ホワッツ・サイズ?」って聞くんです。あとからわかったのですが、売り子は“What sides?”って聞いていたんです。つまり、コールスローをつけるか? ポテトがほしいのか?と尋ねたわけなんですね(笑) 一事が万事この調子。日本人の知り合いはいなかったし、アパートを決めて、電話をひくのだけでも頭をかかえました。

───研究は順調だったのですか?

日常会話には苦労しましたが、医学専門用語のほうはまだわかりやすかった。それに、研究は実験動物が相手ですし、手術の場数を踏んでいて、技術はありましたから。
次第に研究仲間にも認めてもらえるようになって、最初は無給でしたが1年後にわずかでしたが給料ももらえるようになりました。
ところが、研究がおもしろくなってきた2001年に、長田教授から 日本に戻って来いと連絡が来たんです。しかし、僕を外科医として徹底指導してくださった長田教授は、ご自身がアメリカで医師としてチーフレジデントまで務め、いかにアメリカがすばらしかったのかということをことあるごとに僕に話してくださっていたのです。それなのに戻ってこいと言われても……。研究にもちょうど手応えを感じていた頃でしたし、このまま日本に帰ったら絶対に後悔する。まだアメリカでやっていけるかどうかはわからなかったのですが、アメリカに残ることにしました。

───経歴を拝見すると、ウースター校からハーバード大学に移られています。誰もが憧れるハーバード大学に行かれたいきさつを教えてください。

実は3年ほど経ったころ、テキサス大学よりアシスタント・プロフェッサーを募集しているから面接を受けに来ないかと友人から誘われました。幸い合格し、羊をたくさん飼える牧場も用意してくれるという条件を提示されました。バカンティ教授には世話になりましたが、このまま研究員として生活していても展望がないと、そこで「テキサスから来ないかと打診された」と報告に行ったのです。
ちょうどバカンティ教授が、ハーバード大のメディカルスクール(Brigham and Women's Hospital)の教授に招聘されることが決まりかけていた時期でした。その意味でもちょうどいいタイミングだなと思いました。バカンティ教授は私に、「テキサスに行くのもいい。だがお前は臨床医だ。患者さんを救うことが使命なのだから、日本に帰って医者になるか、それとも私とハーバードに行って臨床と研究を一緒にやるか、どちらかにした方がいいのではないか?」と言ってくれました。私は、バカンティ教授が研究と同時に臨床を重要視していることに共感していたこともあり、テキサス行きをやめ、ハーバードに行くことにしたんです。
ハーバード大学では、バカンティ教授のラボの立ち上げに協力したのですが、そのとき、教授は私に大きな研究室を与えてくれるというのです。けれど、私は大きな研究室は病院の中にないので、小さな机一つあればいいから病院の中に部屋がほしいと申し出ました。病院の中にいると、患者さんと常に触れあうことができ、この人たちを救いたいというモチベーションがわいてくるんです。

バカンティ教授とともに。

バカンティ教授とともに。

バカンティ教授を囲んで。

バカンティ教授を囲んで。

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