この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

9年間の海外生活

───すると、大学院の研究がおもしろくなって、研究者になろうと考えたのですか。

いえいえ、まだまだ(笑)。そのころ主人が学位を取り、2年くらい海外に留学するという話が持ち上がりました。私は、それなら2年くらい一緒に海外に行って、日本に帰ってきてから研究生活に戻って学位を取るという選択肢もあるかな、と考えていました。ですから、1990年に主人がペンシルベニア大学ハワードヒューズ医学研究所に留学したときは、ただついていって海外生活を楽しもうというくらいにしか考えていなかった(笑)。英語ももっと上手になりたいし、いろいろ見たり聞いたりしたい。今と少し事情が違って、若い人たちが海外生活に魅力を感じていた時代でした。
そうしたところ、主人の留学先のボスであるドレイファス教授から「修士号を持っているのなら、私のラボで働きなさい」と言われたのです。断る理由もないし、お給料も出してくれるというので、それもいいかなと(笑)。すぐに雇用が決まってしまいました。

───留学先のラボでの研究内容はどのようなものでしたか。

私たちのからだをつくる細胞内には核と呼ばれる小部屋があって遺伝子がしまわれています。遺伝子からRNAがつくられタンパク質が合成されるのですが、細胞内の小部屋と外側とでエネルギーを使って物資の輸送が行われています。その物資輸送の仕組みや、遺伝子発現のメカニズムを研究していました。それと、知能の発達が平均よりも遅い精神遅滞を伴う疾患に「脆弱X症候群」という病気があり、その原因遺伝子の機能を探究する研究をしました。修士のときに習得したさまざまな技術をドレイファス教授のラボで活かせたことは良かったですね。その上でより新しい洗練された研究に携わることができたのはラッキーでした。

───ラボでの先生の役割はどんなものだったのでしょう。
ドレイファス先生のラボで(前列右)

ドレイファス先生のラボで(前列右)

アメリカのラボでは、学位を取っていない修士までの研究者は、研究者というより実験をサポートするテクニシャンの位置づけになります。ドレイファス教授はまだ40代と若く、初めは7人くらいの小さなラボからスタートしたので、人材の確保が難しいところがあり、私は先ほど話したように修士で分子生物学的な技術を持っていたこともあって、ただのテクニシャンというより研究者寄りの立場で実験に携わることができました。その間にまとめた論文で、京都大学の博士号を取得し、研究員になったのです。アメリカで、しかもRNA研究のフロントに位置するドレイファス教授のもとで、優秀な研究員や大学院生にもまれ、いろいろ学べたことは、博士課程に進学して得られるもの以上のものを得る格好の機会でした。ドレイファス教授には本当に感謝しています。

───アメリカでの生活で苦労されたことは?

苦労はたくさんありましたよ。英語がそれほど得意ではなかったので、これを伝えたいのだけれど、伝わらないとか。そうそう、住む家を探してアパートの4階の部屋を借りたところまでは良かったのですが、大きすぎるベッドを買ったために最後の階段のコーナーを曲がることができず、運搬人がそのまま持ち帰ってしまったことがありました(笑)。
日本では電気会社や水道局に連絡すれば、ちゃんと約束の時間に電気や水道を通してくれるのですが、アメリカでは大幅に遅れてきたり、その日に来てもらえなかったり。でもそういう経験をしたおかげでずいぶんタフになりました。
苦労したこともあったけれど、住んでいたフィラデルフィアには、2ブロック先に交響楽団の本拠地がありよくコンサートを聴きに行きました。ニューヨークまで車で1時間半くらいだったので、ブロードウエイで演劇を鑑賞したり、春になるとワシントンDCに行って桜見物をしたり、芝生の上のクラシックコンサートなどを楽しんだり。当初は2年の予定でしたが、結局9年間の海外生活になりました。

───その9年間の海外留学を終えて日本に帰ってくるわけですね。

キャリアパスという意味でも次に進む時期でしたし、9年間も同じラボにいると、研究生活のパターンも同じようになってあまり得るものがなくなってきたのも事実です。7年目くらいから、主人はいろいろな研究機関で次の職を探しはじめました。結局、最終的に徳島大学ゲノム機能研究センターに赴任することが決まりました。センターはできたばかりの新しい研究所で、いろいろな条件に縛られることなく自分のしたい研究ができることが魅力でした。センターの方でも、若くて元気で一生懸命仕事をする人を探していました。私もスタッフとして働くことを決めました。

───そのときはお子さんがいらしたのですね。

ええ、日本に帰るとき、娘は1歳になる少し前でしたが、私たちも若かったから帰国する前にヨーロッパに遊びに行こうと、たくさん離乳食を抱えて、娘を連れて2週間ぐらい、研究者仲間を訪ねたりしてヨーロッパを回って帰ってきたんです。

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