公益財団法人テルモ生命科学振興財団

財団サイトへもどる

中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

サイト内検索

脳内シミュレーションを担う神経細胞集団を探る

いま私たちがいちばん興味を持って取り組んでいるのが「脳内シミュレーション」です。私たちの脳は、何かをやってみて、良かったか、悪かったかという判断だけでなく、これをやってみたら何が起きるか、それは自分にとって良いものか悪いものか、将来にどんな影響を及ぼすのかを予測し、比較検討して行動を選びます。このとき脳内ではどんなメカニズムが働いているのかを実証的に研究することです。

甘いものはおいしいけれどあとで虫歯になってしまうかもしれないとか、頭の中でいろいろシミュレーションして行動を決めているってことですね。その実験もマウスを使ってやるのですか。

まず行った実験では、人にMRI装置の中でゲームをしてもらいました。MRIは病院では体の中の骨や内臓の様子を見るためによく使われていますが、脳の中の血流量の変化を計測して脳のどこがよく働いているかを調べることもできて、これは機能的MRIとかfMRIと呼ばれています。
5×5列のマス上で、ボタンを押すと一定のルールで動くコマを使ってゴールに到達するゲームに取り組んでいるとき、脳のどこが活動しているのかを計測したのです。飛車のように縦横十字に動けるコマなら簡単ですが、桂馬のようにちょっと複雑な動きをするコマでは、何手か先まで動きを予測しないとゴールにたどり着くのが難しい。あらかじめ練習して動きを予測できるコマを使う場合と、初めてで動きを予測できないコマを使う場合を比較して、脳内シミュレーションを行っているときの脳活動を探ったのです。

上、右下、左下のいずれかに1コマずつ進むコマ。スタート地点が赤、ゴール地点は青。二人の被験者の進み方の例

動きを予習したコマでは実際にボタンを押してコマを動かす前に頭の中でシミュレーションしてどう進めばいいかわかるけど、動きのルールがわかっていないコマを使う場合はとにかくボタンを押してみて試行錯誤しながらゴールにたどり着かなくてはならないわけですね。それで脳のどこが働いていたのですか。

大脳皮質の中でも、空間情報を処理する頭頂葉や、空間処理を含めた予測や計画にかかわるとされる前頭前野、運動の準備や実行にかかわる運動前野といった部分に加えて、それらとつながっている小脳や大脳基底核の部分も連動して働いていました。
おもしろいのは、小脳や大脳基底核は一般に運動制御にかかわるといわれていますが、指を動かす前にすでに活動しているということです。例えば、小脳はこのボタンを押したらコマはここに進むという予測をして、大脳皮質はその結果を何ステップにわたって作業記憶を保持する、大脳基底核はその結果の良し悪しを評価するといった形で脳内シミュレーションが行われている可能性があります。 この実験で、予測し評価し選択するにあたっては、脳のある特定の部分だけが働いているのではなく、広いネットワークが関わっていることがわかりました。

次にどんな実験をしたのですか。

頭頂葉は空間情報を処理するとお話ししましたが、頭頂葉には、いま見えている場所だけでなく、これから行こうとする意図に対応する活動があることが知られています。おそらく脳内シミュレーションを行う際に、空間座標のようなものを使ったシミュレーションが行われているのではないかという仮説を立て、この部位の神経活動をさらに詳細に調べようと考えました。

人間を対象に、個々の神経活動を詳細に調べるのは難しいですよね。

皆さんは真っ暗な部屋の中でベッドから起きて出口のドアを探す経験をしたことがありますか。そのとき、ベッドからこれだけ歩いたからあと何歩でドアがあると、過去の経験をもとに予測してドアを探すと思います。そして、壁や家具などに触ったりしながら予測を修正してドアにたどり着くでしょう。
このように不確かな感覚情報を、行動情報で補い合って現在の状況をシミュレーションするときの頭頂葉の働きを、マウスを使って実験したのです。

マウスを暗闇で歩かせたんですか?

はい。暗闇の中で音の手がかりをヒントにして、ゴールに向かって歩く訓練をしたマウスを使いました。といってもこのときの脳活動を特殊な顕微鏡下で記録しなくてはなりませんから、空気で浮かせたボールの上という仮想空間で歩かせるわけです。

マウス周囲に12個のスピーカーを設置。下から吹き上げた空気で浮かせたボールの上をマウスが歩くとボールも回転する。このボールの回転を検出して、スピーカーから出る音の方向と強さを調整することで、ゴールに向かって歩いている状況を再現できる

おもしろい実験! ニオイに向かってショウジョウバエが飛ぶときの神経活動を仮想空間で探った風間北斗先生の実験装置を思い出しちゃうな(フクロウ博士の森の教室/脳の不思議を考えよう 第10回「匂いの脳科学」参照)。

音の手がかりを消しても、マウスはそれまでの経験でちゃんとゴールにたどり着くんです。でも、薬を入れて頭頂葉の神経活動を抑制すると、音が聞こえる場合は問題ないのですが、音が聞こえなくなるとゴールが近づいているのがわからなかったり、通りすぎてしまったりするんですね。このことから頭頂葉の神経細胞の活動が、ゴールに向かうときの脳内シミュレーションにかかわっていることが明らかになったのです。

脳内シミュレーションしているときの神経細胞の活動はどのように記録するんですか。

いまや遺伝子工学と顕微鏡技術の発達によって、脳を傷つけることなく、脳の表面から0.5mmぐらいまでの深さの神経細胞の活動を記録できるんです。まず、カルシウムイオンと結合すると緑の蛍光を発する分子を作るための遺伝子を、ウイルスを使ってねらった細胞に持たせておきます。すると、神経細胞が活動した時にはカルシウムイオンが細胞内に流れ込んでこの分子と結合するので、蛍光の変化を顕微鏡で観察することで、300~500個ぐらいの神経細胞の活動を同時に記録できるんですよ。そしてゴールまで20cmとか50cmとか、距離ごとの神経細胞集団の活動パターンをあらかじめ記録しておくと、今度はデコーディングといって、ある時点で得られた神経細胞集団の活動データから、ゴールまでの距離を推定することができるのです。すると、音が聞こえるときはゴールまでの距離に応じたパターンを正確に示すし、音が聞こえていないときも、自分が歩いた距離に応じてゴールまでの距離を正しく予測していることが実証できました。

マウスながらすごいニャー。

さて、こうした予測と行動の関係は、工学分野でも重要な問題で、実際に自動車でも応用されているんですよ。なにかわかりますか?

えー、うーん、なんだろう?

ほら、カーナビは、トンネルやビルの間でGPS信号が弱くなったところでも自動車が走っている位置を教えてくれるでしょう。あれは、たとえ信号が弱くなってもタイヤの回転数から車の位置の変化を予測して現在の位置を教えてくれる仕組みになっているんです。

私たちの脳は、カーナビが発明されるはるか前から、ちゃんとカーナビ的なシミュレーションを行っていたってことですね。