公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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中高校生が第一線の研究者を訪問
「これから研究の話をしよう」

第1回
幼いころの夢を実現していく
藻類研究者の歩む道

第4章 迷いも苦手も憧れにはかなわない。藻類研究者になるまで

榎本
先生は大学や大学院で、薬学、理学部にいたとおっしゃってたんですけど、いつ頃からそういう理系分野に、興味を持ち始めたのですか。
藤原
私は子供の頃、本がすごく好きな子でした。家にあった大きな百科事典を、喜んで1巻から読んでしまうくらい、何でも知りたがり屋でした。自由研究も大好きで、夏休みの他の宿題よりも、「まず自由研究を考えなきゃ」とずっとそのことで頭が常にいっぱいでした。私は1人でいろんな青や白の巨大な結晶を作って妹に見せたり、オジギソウを触り過ぎて枯らしたり。当時の理科の先生は、私がお願いすると、顕微鏡の持ち帰りを許可してくれたので、1.5キロくらいの顕微鏡の入った重い木箱を家まで持ち帰り、花粉管の観察とかをやりました。
憧れの人は、「昆虫記」で有名なファーブル、放射線の研究でノーベル賞を取ったキュリー夫人、アフリカでの医療活動に従事してノーベル平和賞をとったシュバイツァーでした。特にファーブルは、学校の先生をしながらも、地面に頭を突っ込んで虫を観察するという面白い人で、こんなふうになりたいなと思っていました。またその頃は頭の中が面白い妄想で溢れていたので、登下校中にお話を作って物語をしたり、文化祭で劇の脚本を頼まれたりしました。そのため同級生からは、私は童話作家になるだろうと思われていたようです。

「ファーブルやキュリー夫人、シュバイツァー、他にも錬金術師や数学の先生に憧れていました」

理系、文系の話ですが、高校時代は、何でも好きで、どちらに行くか自分ではまったく分かりませんでした。実家が小さな運送屋さんで、小さな倉庫でトラックの修理や車検など、いろんなものを作ったりする環境で育ったので、工学部に行こうとも思っていました。でも、試験管の夢も断ち切ることはできませんでした。薬学部に行けば、生物も分かるし、化学も分かるし、ちょっとお得な感じがしたんです。それで親に相談したら、「自分の好きなことをやっていいんだよ」と言われて、その言葉で私は楽になった気がして大学の薬学部へ進学しました。
しかし、実は私の大学時代は低空飛行の日々でした。田舎出身で方言があり、友達もあまりいないし、恥ずかしがり屋でおまけに要領が悪い。先輩から過去問をもらうというテクニックも使いませんでした。そのせいか、もう驚くべきことに、大学1年の生物の講義ではいきなり再履修が必要で、留年しなかったのが奇跡っていうくらいだったんです。その後は、先ほど話したように、薬学部からなぜだか藻類の研究に行ってしまったんですが、研究室に入ってみると、いきなり人気者になったんです。「教えて、教えて」とみんなが私のもとに来るようになったのです。「えっ?、私みたいなのでいいの?」と驚きましたが、研究室での私は水を得た魚のような感じで、元気になりました。
それで研究がより面白くなって、決死の大学院入試を乗り越え、大学院へ進学しました。私はすごくのんきな性格だったのですが、このときばかりは「大学院入試に落ちてこの研究室に行けなければ、人生終わりだ」と必死で取り組みましたね。毎日暑い中、下宿で豆腐とヨーグルトで飢えをしのぎつつ、よろよろになりながら勉強していました。

藤原先生のエピソードに笑顔を見せる

一同
(笑い)
藤原
大学院では、その後、基礎研究がやりたくなり、理学部へ移りました。そこはドイツ語とかが受験科目にあるんですね。それでまた大変だったのですが、それも何とかクリアできました。
就職もラッキーなことに、研究テーマが合って、最終的にこの大学へ来ました。大学では若い学生さんたちと一緒にいろいろと話しながら実験をできることが良かったなと思います。
最近分かったことは、今になって、実はどの憧れもちょっとずつ実現できているということです。試験管を振ったり、みんなに教えたりすることは、いつの間にかできていました。これまでの中ですごく大変なことも多かったですが、本当に今までずっとラッキーだったなと思います。今後は、研究を通してシュバイツァーのような人の役に立つことをやっていきたいですね。

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