この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」第20回 ワシントン大学の厳しい指導教授に鍛えられたことが財産に 名古屋大学大学院 理学研究科 生命理学専攻 教授 森 郁恵

線虫の記憶と行動を追い求める

───線虫の研究についてお聞かせください。

線虫は、C.elegans(シーエレガンス)とも呼ばれる線形動物門の生き物で、土壌に生息して細菌を食べて生きています。体長は約1㎜で透明なからだをもっています。
1980年代の初めにイギリスの研究チームが線虫の細胞分裂のプロセスをすべて観察して、線虫のからだが959個の細胞でできていることを突き止め、86年にはジョン・ホワイトという研究者が302個ある神経細胞が約七千カ所でつながっている様子を明らかにしました。
私は、ワシントン大学にいたときにそのことを知り、一つの生物のできあがる様子がこれほどはっきりとわかることにすごく感動しました。
九州大学の大島先生のもとで始めたのは線虫の「温度走性」というものでした。線虫は、飼育された温度を記憶しており、餌を十分与えられて飼育されると、温度勾配上でその温度域に移動するようになります。逆に餌を与えないと、温度勾配上で飢餓体験を感じた温度域を避けるようになります。この温度走性に関しては、すでに高い関心が寄せられていたのですが、実験科学として成立するのかわからないというので、敬遠されていたテーマでした。

線虫の感覚器官と神経細胞

線虫の感覚器官と神経細胞
線虫の頭部先端には、感覚神経細胞の先端が集合している感覚器官があり、そこで、温度、味、匂い、接触刺激などの外界からの刺激の入力を受ける。それらの外部情報は、神経細胞同士が多数のシナプスによって接続している神経環で処理され、最終的に、応答行動として出力される。

線虫の温度走性

線虫の温度走性
中心が約17℃、縁が約25℃の放射状温度勾配上に、線虫を置いた場合、15℃で飼育された個体は、低温である中心の17℃に移動し、20℃で飼育された個体は20℃付近に円を描くように移動し、25℃で飼育された個体は、縁の25℃に移動する。

───なぜ、先生はそのテーマにチャレンジしようとされたのですか。

高校時代に動物行動学に興味を持ち生物学を目指した私には、とても魅力的なテーマだったからです。このテーマは、温度がどのように中枢神経系に表現されるのか、あるいは温度記憶のメカニズムはどうなっているのか、また、温度記憶と餌環境の関連、記憶している温度と、線虫がその場で感じている温度との照合、さらには、照合した後で線虫がどのように運動の方向を決定するのかなど、興味の尽きないテーマがたくさんあったのです。

───実際にどんな実験をして研究を進めたのでしょう。

線虫が温度をどの細胞で感知するか、レーザーで線虫の神経細胞を一つずつ焼いて、温度を感じる細胞がどこにあるかを探りました。その結果、AFDという神経細胞が温度受容細胞だということが明らかになりました。
さらに、名古屋大学に移って研究室を立ち上げてから、AFD細胞は温度の感知機能だけでなく感知した温度を記憶できる細胞であることも突き止めました。そして、「餌があった」「餌がなかった」という情報は、AFDと接続しているAIY 細胞、AIZ 細胞、RIA細胞という3つの介在細胞で認識されていることが分かってきたのです。ある温度で「餌のある状態」で飼育された線虫は、AFDで記憶された温度情報と、AIY 細胞、AIZ 細胞、RIA細胞で認識される「餌があった」という情報を連合して学習し、「餌のあった飼育温度」が好きになり、その温度のほうに移動することになるのです。

温度走性の神経回路

温度走性の神経回路
温度は、主にAFD神経細胞で感知され、記憶されていると考えられる。餌状態(餌があり満腹なのか、餌がなく空腹なのか)は、AFD細胞とは独立に3つの介在神経細胞(AIY、AIZ、RIA)で認識されると考えられる。線虫は、AFD細胞で記憶されている飼育温度の情報と、3つの介在神経細胞(AIY、AIZ、RIA)で認識される餌情報を連合して学習している。

───先生の研究は、ヒトの記憶や行動にもつながるのですか。

ヒトの脳では、記憶は大脳皮質で行われ、学習や感情などは大脳基底核で行われているのですが、線虫の「温度の好き嫌い」を決めている神経回路は、ヒトの「好き嫌い」を決めている脳構造と、良く似ていることが最近になって分かってきました。大まかに言うと、温度を記憶するAFD 細胞は大脳皮質に、温度情報と餌のある場所を学習している介在細胞は、大脳基底核に対応しているわけです。
私たちは、線虫の温度走行の行動を解析することによって、ヒトの脳がどのようにして「心の営み」を作り出しているかを明らかにできるのではないかと考えています。

線虫の「好き嫌い」の神経回路と人間の脳構造

線虫の「好き嫌い」の神経回路と人間の脳構造

───最後に中高校生の読者にメッセージをいただけますか。

何か好きなことがあったら、学問でもスポーツでもなんでもいいから、やり続けてほしいですね。やり続けてみて、壁にぶつかったら、両親、友人、先生に相談してみてもいいから、とにかく投げ出さないでやり続けることです。継続していくと、これまで見えなかったものが見えてくることがありますから。

研究室にて

研究室にて

(2012年8月30日取材)

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