この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第22回 高校時代、手づくりの生物の教科書に巡り合って生命科学の道に 公益財団法人 実験動物中央研究所 応用発生学研究部 部長 佐々木えりか

Profile

佐々木 えりか(ささき・えりか)
1989年筑波大学第二学群農林学類卒業。95年同大学大学院博士課程農学研究科農林学専攻学位取得卒業。同年農林水産省家畜衛生試験場 新技術事業団特別研究員。96年カナダ・ゲルフ大学博士研究員。2001年東京大学医科学研究所・リサーチアソシエイト。03年実験動物中央研究所入所。04年慶應義塾大学医学部助手(兼任)。10年より実験動物中央研究所・応用発生研究部部長。13年慶應義塾大学医学部特任教授(兼任)。

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病気の原因の探究や、新しい薬剤の有効性の確認、さらにはiPS細胞などを使った再生医療の進展にあたっては、モデル動物を使った研究が欠かせない。佐々木えりか先生は、マーモセットという小型のサルの遺伝子を改変したトランスジェニック・マーモセットを世界で初めてつくりだした。先生が生命科学のおもしろさを知ったのは、高校時代の生物の先生が用意した手づくりの教科書だったという。

アメリカ、マレーシア、日本で過ごした子ども時代

───どこで子ども時代を過ごしたのですか。

父が林学の研究者としてアメリカで研究生活を送っていた関係で、ウィスコンシン州のマディソンという町で生まれました。アメリカの幼稚園に通いましたが、なにしろ小さい頃の話ですから、どんな幼稚園時代を過ごしたのかあまり記憶にありません。4歳の時、父が農林水産省に就職したため日本に来ました。家は、神奈川県で葉山の御用邸の近くにあり、周辺は田園地帯でした。自分で釣り竿みたいなものをつくって、ザリガニを釣ったり、オタマジャクシをとってきて家で飼ったりして遊んでいました。
先ほどお話ししたように、アメリカ時代の記憶はほとんどありませんが、後から両親などに聞いたところでは、アメリカの幼稚園では「えりかは、自分がやりたいことがはっきりしていて良い子ですね」と言われていたのに、日本の幼稚園では「えりかは、他のみんなといっしょにお遊戯ができなくて困った子ね」と言われて、戸惑っていたようでした。両親によると、アメリカにいた時も周りはみんな白人の子だったので、私はアメリカにいても日本に来ても、“変な子”なんだと自分のことを思っていたらしい(笑)。だからといってそのことをすごく気にしていたわけではなく、まあ普通にみんなと遊んでいたと思います。

クアラルンプール日本人学校の友人と(前列中央)と

クアラルンプール日本人学校の友人と(前列中央)

───その後は、日本の小学校にずっと通ったのですか。

いえ、入学して1年は日本の小学校に通っていたのですが、2年生の時に、これも父の仕事の関係で、マレーシアのクアラルンプールの小学校に転校しました。日本人学校だったので、日本で用いられているのと同じ教科書を使った授業が行われていて、友達も日本人ばかりで違和感はなかったですね。小学校の校庭は広い芝生があり、授業が終わってからもみんなでサッカーや鬼ごっこをして遊んでいました。
その頃、1970年代の後半になるのですが、マレーシアではテレビは夕方の4時から夜の8時までしか放送されないんです。しかも、中国語とマレーシア語の放送だけでした。そんなわけですから、日本の芸能情報もリアルタイムでは入ってこない。紅白歌合戦は、日本の親戚などから送られてきた録画で見るんです(笑)。それも、当時、一般家庭にはビデオデッキが普及していませんでしたから、唯一ビデオデッキのある日本のテレビ局でアナウンサーをしていた方の家に集まって楽しんだものでした。

───小学校時代に好きだったことはなんでしょう。

マレーシアの小学校の図書館には日本から毎年新しい本が入ってきたので、本を読むのが楽しみでした。主に湯川秀樹やキュリー夫人などの伝記がお気に入りでした。マレーシアはとても暑いので、エアコンの効いた図書室が居心地が良いせいもあったんですね(笑)。
小学校5年の時、世界でも有数の学術研究の施設が集まった筑波研究学園都市ができて、農林水産省の研究施設も筑波に集められ、父がそこの研究所に勤めることになって、また日本に戻ってきました。やはり本を読むのは好きでしたね。石に興味を持つようになり、「原石分類図鑑」などを眺めるのも趣味の一つでした。将来石の研究者になろうか、なんて考えていました(笑)。

───その頃からもう研究者を進路に考えていたんですか!

いえ、たまたまそんなことを考えたくらいで、あまり真剣に考えていたわけではありません。父親が研究者だったし、筑波学園都市の小学校は、地元の子と研究施設ができてから移ってきた研究者の子どもが半々といった構成で、友達の親に研究者が多いこともあって、研究者を特別なものとは考えていませんでした。それと、父が「会社勤めの人の中には、いやいや仕事をする人もいるという、私にはそういう気持ちが分からない」と言うのを聞いて、研究者というのは幸せな職業だと感じたこともありました。もっとも将来ぜひ研究者に、とまでは思ってはいませんでしたね。

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