この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

医学部進学の重圧を感じた高校時代

───高校時代はどのように過ごしたのですか。

長野県でも屈指の名門校である松本深志高校に進学しました。入学したときの成績はトップクラスでした。そのまま順調に勉強を続けていければよかったのですが、いろいろ事情があって、高校生活は順風満帆とはいかなかった。いや、これまでの人生でいちばん悩み苦しんだ時代だったかもしれません。
ひとつは、代々続く医者の家系で、長男の私に寄せる親の期待が重くのしかかってきたことです。「3代目が(つまり私のことですが)しっかりしないと、家がつぶれる」と祖母は口癖のように言っていました。そうした期待に応えなければならないと思う一方で、自分の資質としては文科系が合っているという思いもあったのです。
小さいときから読書は好きだったのですが、高校生になるとさらに高じて、夏目漱石や三島由紀夫などの作品をほぼ読みつくすくらい熱中しました。音楽も好き、絵画を鑑賞するのも好き、そして読書に熱中していたので、大学はたとえば早稲田の文学部に入って、卒業したら編集、マスコミ関係の仕事をするという進路もあるのではと考えたりもしたのです。しかし、両親は、文学部に進学しても将来が不安だから医学部に進学しなさいというわけです。

───それで、やはり医学部に進学することにしたわけですね。

ええ。ただし、医学部に進学するにあたっても、悩みがありました。 私は高校に入るときは、トップクラスの成績で入学したのですが、親や親族からの期待に応えることに苦痛を感じてからは、あまり勉強が手につかなくなった。そのため成績は振るわず、とても国立大の医学部に現役合格するような状態ではなかったのです。しかも私には同じ高校に通う一つ年下の弟がいて、これが「お前の弟は現役で東大の医学部だ」といわれるくらい成績が良かった。
もし一浪すると弟と同じ年に受験することになり、それはそれで大変です(笑)。そこで、どうしても現役で受かる医学部を探そうと考えました。当時、国立大学には旧帝国大学、旧医大を中心とした3月上旬に試験がある1期校と、旧医専やそれぞれの県などに設置された新設医大など、3月下旬に試験のある2期校とがあり、私は難関で知られる1期校と、新しくできたばかりの秋田大学医学部を受験することにしました。

───受験勉強はラストスパートをかけたわけですか。

はい。高校3年生の1月から猛勉強しました。高校の授業は1月にはもう終了していたので、市立図書館に通いつめて、数学の基礎からやり直したことを覚えています。1期校はダメだったのですが、秋田大学は30倍を超える競争率でしたが合格することができました。

───秋田での大学生活はどうでしたか。

秋田大学に入学して松本を離れることができ、初めて家の呪縛から解放された感じがしました(笑)。一応医学部に入学したことで両親との約束も果たせたわけで、ほっとしたというのが正直なところでしたね。
秋田に住んで驚いたのが、秋から冬にかけての自然の厳しさでした。松本市は本州でも日照時間のいちばん長い、意外に気候のよい場所だっただけに、秋になって稲妻が光り、冬には猛吹雪が襲ってくる季節の中で過ごすのはきつかった。

───ではどんな楽しみがあったのですか。

20歳の頃からクラシック音楽を聴くようになり、著名なオーケストラが秋田に来たときには、お金がなかったのでいちばん安い席でしたが、コンサートに足を運んだものです。あるとき、クリーヴランド管弦楽団が来て、ロリン・マゼール指揮によるベルリオーズの「幻想交響曲」やグリンカの「ルスランとリュドミラ」などの心湧き立つような音楽を聴き、音楽の持っている力に圧倒される思いでした。さらに大阪フィルハーモニー交響楽団が東京に来たとき、朝比奈隆が指揮するマーラーの「交響曲第9番」を聴いたときには、音楽と私の目指している研究者の道と相通じるものがあると感じたものです。そう言っても、なかなか理解してもらえないのですが・・・(笑)。

───サークル活動や印象に残っている友人などはいましたか。

サークルには入りませんでした。大学時代の友人には、後から芥川賞をとった南木佳士がいました。彼は非常に私と共通点が多く、大学受験では同じ1期校を受けて失敗し、秋田大学に入学したのだそうです。そのあたりの事情や秋田大学での医学生としての生活は、南木の対談集『ふつうの医者たち』や『医学生』という小説に出ていますから、ぜひ読んでください。

秋田大学時代
右側後列左

右側後列左

後列右

後列右

2列目右から3人目

2列目右から3人目

左から2人目

左から2人目

PAGE TOPへ
ALUSES mail