この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第24回 筋ジストロフィーの新しい遺伝子治療法の開発に取り組む 独立行政法人 国立精神・神経医療研究センター トランスレーショナル・メディカルセンター センター長 武田 伸一

Profile

武田 伸一(たけだ・しんいち)
1952年松本市生まれ。1977年秋田大学医学部医学科卒業、81年信州大学大学院博士課程修了、医学博士。長野県厚生連富士見高原病院に勤務。83年国立長野病院 医長。84年信州大学附属病院第三内科助手、87年フランスのパスツール研究所へ留学。92年国立精神・神経センター神経研究所疾病研究第一部第一研究室長。2000年同研究所遺伝疾患治療研究部部長。2008年より現職。

profile
祖父の代から続く開業医の家に生まれ、医者になることへの期待感と重圧をひしひしと感じた高校生時代。人生でいちばん悩み、苦しかった頃だという武田先生。文学、美術、音楽などが好きで、文科系に進もうと考えた武田先生は、大いに悩んだ末、親のすすめもあって医学部へ進学する。大学院や研修医時代を通じ、臨床医と研究者を両立させ、やがて研究者の道に本格的に進むと、難病とされる筋ジストロフィーの研究に打ち込み、いま、新たな治療法を確立して注目されている。

読書好きなおとなしい子

───先生はどちらで子ども時代を過ごしたのですか。

長野県松本市で国宝に指定されている松本城の近くで生まれ育ちました。信州とはいえ町なかでしたから、自然に親しんで過ごしたというわけではありません。
小さな頃はややからだが弱く、父は開業医でしたが、過保護でしたね、学校でかぜなどが流行すると「学校には行かなくていい」と休ませてしまうんです(笑)。そんな感じでしたから、本を読んだり、NHKラジオの教育番組を聞いたりするどちらかというとおとなしい子どもでしたね。
通っていた公立の小学校は、「個の内に育つ力」を教育目標に掲げるユニークな学校でした。クラスごとにそれぞれ任務があって、それを子どもたちが自分たちの役割として果たしていくことを通じて、自分自身でものを考え、実践する力を育てようとしていました。あるクラスは冬になると、校庭の中庭に水をまいて氷を張りスケートリンクを準備する役目。そこで全校が体育の時間にスケートをするわけです。私のクラスでは温室で花を育てるのが任務で、ゼラニュームやベゴニアを何百鉢とつくって市民にお分けしていました。今の総合学習に結びつくような教育をしていました。

───中学生になってもおとなしい生徒でしたか。

ええ、読書や音楽が好きで、ビートルズやポップスをよく聴いていました。
ただ、ふだんはおとなしいのですが、発言しなければならないときにはきちんと意見は述べたようです。
私が通った中学は信州大学教育学部附属松本中学で、研究授業などがあると全国から先生たちが授業参観にやってくるのです。あるとき私のクラスが参観の対象になりました。体育館にクラスの生徒30数名が集められて、その周りを100人以上の参観者が取り囲んで音楽の授業が行われるのです。音楽担当の先生は、中学生の全国合唱コンクールで日本一に輝いた指導実績のある熱血先生でしたが、「このクラスはおとなしいので、それに合ったシナリオを用意していた」そうなんですが、いざ授業が始まると、「予想以上に活発に発言する生徒が多く、最初描いていた授業の構想が壊れてしまった」と後から嘆いていました。「その先頭に立って一番発言していたのがお前だ」と言われました(笑)。

───クラブ活動はどんなことをしていたのですか。

サークルにはメインとサブの2つまで所属することができたので、理科実験クラブとバスケット部とを選びました。バスケットは部員の中でもいちばん下手だったのではないかな。
理科実験クラブに入ったのは、私の家は祖父も父も医者で、両親からいずれ医学部に進学することを期待されていたこともあり、理系の勉強に触れていた方がいいと自分でも判断したのだと思います。

───勉強はいかがでした?

それほど勉強はしなかったけれど、成績は良かったのです。読書や音楽に飽きたらようやく勉強をするという感じで、そのほとんどの時間を数学に充てていました。解けたときの解放感が気持ち良かったですねぇ。

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