この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

山中伸弥先生の研究室で分子生物学を学ぶ

───音楽の方には進まずに、研究者になった転機は?

専門に分かれるときに、就職が良さそうだったので高分子化学を選択したんです。4年生になって研究室に入ると、毎日のように朝早くから夜遅くまで実験が続くのですが、最初はイヤイヤだったのですが、やっているうちに面白さがわかってきました。論文を読んで考えたり、実験して失敗したり、頭を使いなおかつ職人的な技も必要で、これはもしかすると、音楽よりも企業への就職よりも、自分の適性に合っているのかもしれないと思うようになり、この時初めて本気で大学の研究者を目指そうかなと考えたのです。
振り返ってみると、研究者への道を選ぶまでに、よくぞこれだけフラフラしたもんだと我ながら感心します(笑)。特に父親は私が研究者になりたいというので、喜んだみたいです。高校の時はまったく勉強せず、大学に入った後もギター抱えてばかりだったので、がっくり肩が落ちていたという話をよく聞きましたから。

───高分子化学から、分子生物学のほうにシフトしたのはなぜですか。

高校生の時の生物学はただ暗記するだけで面白いとは思わなかったけれど、自分の手で研究して楽しいのは、分子生物学だと感じたのです。子どものころからなぜ生命が発生するのか、生命とはなんだろうなどという興味を持っていて、生命のもとともいえるES細胞を研究できたらいいなと考えました。ちょうど、のちにノーベル賞を受賞される山中伸弥先生が奈良先端科学技術大学院大学に在籍されていて、ES細胞の多能性の仕組みなどを研究なさっていました。その山中先生の研究室のホームページが、分子生物学の門外漢である私にもすごくわかりやすく、興味深かった。
それで、奈良女子大の修士を1年間でやめて、山中先生の研究室に入門したいと試験を受けたんです。研究室訪問の時に、これまでの研究を説明するために作成したプリント一枚を見せながら話そうとしたところ、山中先生から「自分の研究を分野外の研究者に説明するには紙を使わず口頭で分かりやすく伝えなくては」とたしなめられました。手厳しくダメ出しされたので無理かなと思ったのですが、幸いにも山中先生のラボに入ることができました。

───山中先生の研究室はどんな雰囲気だったのですか。

入ってみると予想通り(笑)、山中先生はすごく厳しくて「山中道場」と言われるくらいでした。それに、今まで理学部化学科で学んだ技術や知識がほとんど全く役に立たない。これはちょっと異分野すぎたかなあ・・・と正直、思いましたね。周りの先輩は優秀な人ばかりで、研究者を目指すのはこうした人ばかりなんだと、遅まきながら気づきました(笑)。
だから、最初のころはかなり辛かった。でも、先輩方はみなさん親切な方ばかりで、私が知らないことをていねいに教えてくれて、本当に恵まれた環境でした。
しかしできないことだらけでとにかく大変で、必死でついていったという感じでした。それでも本当に楽しかったですね。「もっとやれ、もっとやれ」という感じでどれだけ実験をやっても文句を言われない。この2年間で、分子生物学の基本的なことを学ぶことができたと思います。

山中研メンバーでビアガーデン(写真右)

山中研メンバーでビアガーデン(写真右)

───山中研究室ではどんな研究に取り組んだのですか。

いろいろな実験・研究をしましたが、ひとつ例に挙げると、ES細胞に特定の遺伝子を導入すると、未分化のままでいるのか、分化するのか、あるいは死んでしまうのかとか、そのES細胞がどんな変化をするかを研究するんです。まだiPS細胞ができていなかった時代なので、多能性幹細胞の可能性はES細胞で実験していました。

───では、この間に研究者としてやっていく自信がついたのですか。

修士のころいくつかテーマをもらったのですが、論文を他のグループに先に出されてしまったり、うまくいかないことが続いて、「山中研一運の悪い女」と呼ばれていました。実験がうまくいかないことも多く、自分が研究者として本当に通用するのか自問自答する日が続きました。悩んで山中先生に相談すると「石の上にも三年」といわれました(笑)。
その後、山中先生とともに京都大学に移り、私が博士課程1年のときにマウスのiPS細胞が樹立されました。そこで私はiPS細胞からの神経幹細胞(神経細胞の元になる細胞)の作成を担当することになりました。脊髄損傷などの患者さんへの移植治療に使えないか、前段階としてマウスで検証するためです。山中先生と慶應義塾大学の岡野栄之先生が共同研究をすることになり、山中先生から、岡野先生のところで3ヵ月くらい実験系を習ってきなさいと、iPS細胞を携えて東京の岡野先生のラボに出向することになったんです。結局論文投稿までということで3ヵ月が1年半くらいになったのですが、ものすごく刺激を受けました。山中先生のもとでしっかり基礎を固めた後に、岡野先生は結構自由に研究させてくれて、そこである程度自分の研究ができたことが自信につながったと思います。
その後また山中先生の研究室に戻って残り1年半研究を行い、結果としては、iPS細胞の安全性が元の体細胞の種類によって異なるという新しい概念を発見し、さらに、iPS細胞由来の神経幹細胞を用いた脊髄損傷モデルマウスの治療にも成功し、無事に博士課程を修了しました。国内外の学会で賞をいただけたのもとても嬉しい経験でした。山中先生と岡野先生という二人の研究者に出会えたことが私の研究生活の中で大きなできごとでした。

2007年慶應・岡野研集合写真。最初来た時は、人数の多さにびっくり!

2007年慶應・岡野研集合写真。最初来た時は、人数の多さにびっくり!

───今は北海道大学に研究室を持っていますね。

北大は私の憧れの大学でした。中高生の時に漫画の「動物のお医者さん」を愛読しておりまして、北大も受けてみたいと考えたのですが、家から通える大学でないとダメと親に言われてあきらめたんです。実際にこちらに来てみると、キャンパスが広くて自然豊かで、研究環境も整っていて、市街地に近くて便利で、研究・生活面共にかなりやりやすいですね。

PAGE TOPへ
ALUSES mail