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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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県の水産試験場で超大物のタイを見て「ここで働こう!」

———勉強はいかがでしたか?

釣りのことしか頭になくて、まるで勉強してないんですよ。小学生のとき、ぼくがあまりにも勉強しないものだから母親が勝手に通信教育と近所の塾に申し込んだことがあるんです。でも、通信教育は1回答えを書いて出しただけでやめてしまい、塾には一度も行かずにやめてしまいました。それで親も諦めたようです。

———小・中学校時代の将来の夢は?

小学校のときの将来の夢は「釣り師」。小学生だから仕事や職業が何かも分からずに書いたんですね。中学のときは「絵描き」です。というのも父も母も絵描きなんです。姉は美術大学に進んで今もその方面の仕事をしていますが、大工の息子が大工になるみたいな感じで、なんとなく自分も絵描きになるのかなと思っていました。

———美術には小さいころから親しんでいたんですか。

週末には家族みんなで上野の美術館に行くんですよ。子どものぼくにとっては苦痛でしたが、今から思うといいものを強制的に見させられたおかげで、いい絵を見て楽しめるようになったと今では感謝しています。美術の成績もそこそこよかったから、中学のころは漠然と芸大をめざすべきなのかなと思っていましたね。でも、その考えは高1のときに変わりました。

———高1のときに何があったんですか?

高1の夏休みに、地域の産業について原稿用紙100枚分ぐらいのレポートを提出する宿題が出たんです。みんなそれぞれいろんな会社に取材に行ったりしたわけですが、ぼくは迷わず神奈川県の水産試験場へ行きました。ちょうど、クロダイ釣りがやっと分かりかけてきたころです。一般公開の日に行ったんですが、生け簀を見てびっくり。ぼくにとっての憧れの魚である大きなクロダイが生け簀に何十匹といて、悠然と泳いでいるのです。それを見て思いました。小学4年生からの人生を全部この魚に捧げてきたのに、ここにはこんなにたくさんでかいのがいるじゃないか。何やってたんだオレは、と(笑)。そして絶対ここで仕事をしようと思ったのです。

———水産試験場の研究員になろうと思ったわけですか?

相談コーナーで試験場の研究員に「ぼくはここで仕事をしたいんだけど、どうすれば勤められますか?」と聞きました。すると、職員として働いている研究者の半分以上が東京水産大学(現在の東京海洋大学)の卒業生だと教わり、そのときに、大学は東京水産大学に行こう、と決めたんです。画家志望は一気に消え去りましたね。

———国立大学ですから、今の大学入試センター試験に相当する共通一次試験もあるし、受験科目が多く大変だったのでは?

幸いなことにそんなに難しくはなかったんですよ。東京水産大学に入ろうと1年のときに決めてからもずっと釣りに明け暮れていて、受験勉強は2カ月ぐらいしかしなかったものの、何とか合格できました。

———すでにそのときから研究者を志望していたのですか?

研究者というイメージは持ってなかったですね。魚に囲まれて生きていきたいというだけ。むしろ養殖技術者みたいなイメージのほうが強かったと思います。

———釣りは大学に入ってからも続けましたか?

もちろん! 大学ではワンゲルと釣りを合わせたようなサークルに入りました。釣りの道具をザックに詰めてひたすら山の中を歩き回ってイワナやヤマメを追いかけ、キャンプをしながら1週間旅するといった活動に明け暮れました。
でも、高校時代は成績こそ悪かったけれど、こと釣りに関してはオレが絶対一番だと思って生きてきたのに、大学に入ったら、自分はそこらの石ころにすぎないと知りました。釣りの才能も努力もセンスも、圧倒的にすごい奴が大学にはゴロゴロいたんです。

———水産大にはそういう魚好きが集まっていた?

猛者ばかりです。日常会話の中で魚の名前を学名で呼んでる奴とか、熱帯魚オタクとか日本産の淡水魚オタクとかいろんなマニアがいて、それはそれで楽しい付き合いができましたね。

———大学時代、思い出に残っている出来事を教えてください。

小学4年のとき初めて魚釣りをして魚と出会って以来2度目の、ぼくの人生を変える魚との出会いが大学3年のときにありました。

———どんな出会いでしょう?

うちの大学は山梨県の大泉に実験場を持っています。八ヶ岳南麓の海抜1060mの高原に位置していて、大泉という地名は自然に湧き出てくる大きな泉があるというのでついたもので、水源が大学の敷地内あります。その泉の水を使ってイワナやヤマメ、ニジマスなどの養殖技術の開発研究をしています。
大学に入ってからのぼくは、尺イワナ、尺ヤマメという1尺(30.3㎝)を超えるイワナやヤマメを釣ることを目標にして、東北に行ったり四国に行ったり、日本中の川を駆けめぐって魚を探していたのですが、3年になって養殖実習のため初めて大泉実験場に行ったところ、そこには、夢にまで見た尺ヤマメ、尺イワナがゴロゴロいたのです。それを見て「ここで卒論を書くぞ」と決めたんです。卒論は大泉実験場の寮に寝泊まりしながら書きました。

大学時代、秋田県の渓流でのフライフィッシングで念願の尺イワナを釣り上げる

———卒論のテーマは?

魚のクローンづくりです。ぼくが大学にいたころはバイオテクノロジーの勃興期で、染色体操作によって三倍体の魚*をつくるといった研究が盛んに行われていましたが、当時の東京水産大には遺伝子に詳しい研究者があまりいなかった。研究室に核移植をするための道具であるマイクロマニピュレーターがあったけれど、だれも使いこなす人がいない。そこで、それを使って核移植をするというテーマを与えられたわけです。
ぼく自身は、当時、遺伝子組み換え(トランスジェニック)で巨大なマウスができたというような論文が「ネイチャー」に載ったりしていたので、核移植なんてやってる場合じゃない、遺伝子に切り込まなければという危機感を持っていました。そんなとき、魚の遺伝子組み換えに関する世界で初めての論文が2つ出たんです。1986年のことでした。

*三倍体の魚
通常は父と母から一組ずつ受け継いだ二組の染色体を持っている。しかし、魚の受精卵をぬるま湯につけると3組の染色体をもった魚が生まれる。3倍体の魚は、成長はするが成熟したオスやメスにならず、メスの場合は卵を産まないため成長し続け、栄養を卵にとられることもないのでおいしい。

———どんな論文ですか?

1つはニジマスの遺伝子組み換えに関する海外の論文。もう1つはメダカの遺伝子組み換えの論文で、京都大学の研究者によるものです。ぼく自身は、学部時代には遺伝子とか分子生物学の教育は受けておらず、分からない専門用語だらけだったんですが、苦労して調べながら熟読しました。まるでSF小説を読んでいるような気持ちでしたね。ぼくも魚の遺伝子組み換えに取り組みたいと大きな刺激を受けました。

———それで卒業後は、当初考えていた水産試験場への就職ではなく、大学院に進むことにしたのですか?

かなりの時間、水産の技術者になるか研究の道に進むかで揺れてました。でもマイクロマニピュレーターを前に卵をいじっているうちにその論文に出会い、研究が楽しくなったんだと思います。結局、大学院に行くことを選択しました。
分子生物学研究で実績のある他大学の大学院に行く選択肢もありましたが、1987年に東京水産大学に水産学研究科の博士課程が開設され、やる気のある学生は自分のところの大学院に行かせたいと思ったのでしょう、教授は外の大学を受験するのをすごく渋ったんです。それで結局、そのまま東京水産大の大学院に進むことにしました。