中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

慶應義塾大学病院で臨床試験スタート

ニードロップ医師の論文を読んだ金井教授は、これを日本でも治療法として導入できないかと考えた。わが国では、クロストリジウム・ディフィシル感染症の患者は少ないが、潰瘍性大腸炎や難病にも指定されているクローン病、腸管型ベーチェット病など、腸内細菌の異常による疾病はさまざまある。
「こうした難病に苦しんでいる患者さんを何とか救う道を探りたいと、日本でも糞便移植の臨床試験を始めたいと考えました。しかし、何しろ他人の便を移植するといういささか衝撃的な治療法ですから、誰もが納得できるよう安全性を評価するとともに、科学的な治療法としていくことを念頭に置きました」
腸内細菌研究の第一人者である東京大学の服部正平教授にアドバイスをいただき、病院内の倫理委員会で検討を進め、再発性クロストリジウム・ディフィシル10名、難治性の潰瘍性大腸炎10名、難治性腸管ベーチェット病10名、過敏性腸症候群15名の計45名を対象に、臨床試験を実施することになった。一例目の治療が行われたのが、2014年3月下旬である。

実際に糞便移植はどんな手順で行われるのだろうか。
「まず、患者さんとドナー(便の提供者)に糞便移植の説明をして同意を得ることから始めます。ドナーに関しては、肝炎にかかっていないか、寄生虫はいないかなど、その人が本当に健康であるかを徹底的に調べます」
ドナーの選定に関しては、大いに議論したという。自然に恵まれた土地で、日本型食生活のいわゆるジャンクフードを食べていない健康な他人の便がいいか、あるいは一つ屋根の下に住んでいる夫婦や親族がいいか? 後者の場合、同じような食事をし、同じような衛生環境だから腸内細菌も似ている可能性があり、それがプラスなのかマイナスなのか? 決め手になったのは、近い関係のほうが納得できるという心情的な問題だったという。
「といっても、女の子の場合はお父さんの便を移植するのを嫌がるかもしれません。でも、これは笑いごとではなく、女性と男性の腸内細菌は種類が違うということが最近の研究でわかってきました。腸内細菌の研究はまだまだこれからの分野なのです」

腸内細菌が数多く含まれている健康な便なら誰のものでもいいというわけではないらしい。腸内細菌はコロニーを形成し、よそ者を排除しようとする性質があり、これを「コロナイゼーション・レジスタンス」というのだそうだ。だから、できるかぎり同種の腸内細菌を持っていそうな健常人から移植するほうが望ましい。どのようにしてコロニーがつくられるのかなどは未解明で、コロナイゼーション・レジスタンスの克服が糞便移植のカギを握っているのではないかと、金井先生は見ている。
「私たちは最初、無菌状態で生まれてきて、お母さんの産道から出てきたとき初めて腸内細菌に出会うのです。腸内細菌は生まれてきた環境、衛生度などによってその人ごとに種類が違い、だいたい4~5歳くらいのころまでに腸内細菌の種類が決まってしまうというのですが、詳しいことは分かっていません。コロニー形成の謎を解明できたらノーベル賞ものですよ」

ドナーが決まると、いよいよ糞便移植の実施である。検査をパスしたドナーから100gの便を提供してもらう。排便してからできるだけ早く移植することがポイントだという。ドナーの便と生理食塩水を混ぜて、この液をフィルターでろ過する。ろ過した液体を注射器に入れて、内視鏡を使って患者さんの大腸に移植する。

「こうして糞便移植が終わったあとは、患者さんの便にどんな変化があるか、腸内細菌の種類や増え方などを1週目、2週目、4週目、8週目、12週目に検査し、安全性と症状の改善度合いをチェックしていくわけです」 臨床試験は2014年8月時点で、2例を終えたところだ。

金井先生のもとには、毎日のように腸の難病で苦しむ患者さんから問い合わせが来るという。しかし金井先生は、患者さんの期待がわかるだけに、あくまで慎重だ。
「いま手がけている臨床試験は、あくまで安全性評価を主眼に置いたものです。確かに糞便移植はクロストリジウム・ディフィシル感染症には治療効果が良好なことが報告されていますが、他の潰瘍性大腸炎や炎症性腸疾患のひとつであるクローン病、腸管ベーチェット病などに関してはまだ効果があるかどうかはわかっていません。まずは、糞便移植の安全性の評価をきちんと行いたい。欧米、特に米国で流行したものは、文化現象はもとより疾患まで、10年から20年遅れで日本に上陸してきますから、いざ日本でもクロストリジウム・ディフィシル感染症の患者さんが増えてきたときに手遅れにならないよう、臨床試験を重ねて糞便移植のノウハウなどを蓄積しておくことが重要だと思います」

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