この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」第18回 生きた神経細胞の活動を目で耳で体感した感激が忘れられない。独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター 行動神経生理学研究チーム チームリーダー 村山 正宜

この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」 第18回 生きた神経細胞の活動を目で耳で体感した感激が忘れられない。独立行政法人理化学研究所 脳科学総合研究センター 行動神経生理学研究チーム チームリーダー 村山 正宜

Profile

村山 正宜(むらやま・まさのり)
1977年宮城県に生まれる。幼少から埼玉県で育ち、プロのサッカー選手をめざす。高校時代にサッカー選手への夢を断念、生物学に興味を持ち、新聞配達員として学費を稼ぎ東京薬科大学に進学。2006年同大学大学院生命科学研究科博士課程修了。2006年~2010年ベルン大学生理学部で博士研究員。2010年より現職。

profile
小学校から高校まで、ひたすらサッカーに夢中になり、小学生の頃は学校の成績は下から数えた方が早かったという理化学研究所の村山正宜先生。大学の学費は新聞配達と奨学金でまかなうほどの貧乏生活も経験した。やがて神経細胞の研究が世界的な科学誌「ネイチャー」に紹介され、いま、充実した研究生活の真っただ中にいる。

プロの選手をめざして、サッカー漬けの毎日

───子どもの頃から勉強が好きだったのですか。

いいえ、毎日、サッカーばかりしていて勉強などまったくしなかったですよ(笑)。埼玉県の大宮市で育ったのですが、小学校1年生の時、学校のサッカーチームに参加したのが始まりでした。父親がサッカーをやっていたこと、チームプレーが好きだったことも関係しているかもしれません。
とにかく小学生時代はサッカー漬けの毎日でしたね。小学校3年生の時、大宮から車で30分の上尾市に引っ越したのですが、父親の車で練習に通いました。5時起きで朝練、学校が終われば午後練で毎日がクタクタでした。おかげで学校の成績なんか下から数えた方が早かった(笑)。

 幼い頃の村山先生。

幼い頃の村山先生。
右はおばあちゃんにおんぶされて

おばあちゃんにおんぶされて
───中学生になってから、サッカー漬けの毎日に変化はありましたか。

サッカーは、相変わらず夢中でやっていました。中学時代はクラブチームに移り、全国大会にも出場しました。勉強はというと、小学生の時と違って、少しは勉強もするようになりました。でもプロのサッカー選手をめざしていたので高校へは体育推薦という形で進学しました。
高校に入ってからも、サッカー漬け。でも、プロの選手をめざすとなると、レベルが違ってきます。身体能力でも、上には上がいるものだと痛感させられましたね。高校2年生の時、やはりプロになるのは無理だから、サッカーは趣味にとどめようと考えるようになりました。

 高校時代(左)

高校時代(左)

───サッカー選手をあきらめて将来どうしようと考えたのですか。

最初は、体育大学に入り運動生理学を専攻して、将来は体育の先生になってサッカーを教えられたらいいなと思っていました。でも、生物の授業がおもしろくなってきて、高校3年生の夏前に、生物学をきちんと勉強したいと考えるようになりました。
それまでは、ヒトはどのようにして生きているのかを考えもしなかったけれど、生物学を学んで、なぜ食べなくては生きていけないのか、腎臓はなぜ必要なのかなど、生物学の中でも生理学に興味を持ちました。ちょうどその頃、父親が腎臓結石で入院したこともあり、ヒトの内臓の働きについてもっと知りたいと思いました。身体のそれぞれの機能がきちんと働いてこそ、私たちは生きていけるのですが、それって奇跡に近いと思ったんです。またサッカーをやっていたためか、うまい選手はなぜこんなにも状況判断が的確で速いのか、といった疑問もありました。これは身長や筋肉の違いではありません。脳の問題だろうと。
そうはいっても、これまで体育を中心に勉強してきたので、理系の大学に進学するだけの学力がなかった。そこで、現役で合格することをあきらめて1年間浪人することに決めました。

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