この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

高校時代はラグビー部。花園まであと一歩だった

───高校進学にあたって、どの高校を選ぶかで迷ったりしませんでしたか。

鳥取県の西部の中学生にとっては、大学進学をめざすなら米子東高校ひとつだけといった環境でした。中学浪人してでも米子東高校に進学する子がいるほどだったんです。成績はよかったので迷わず米子東を受験しました。

───どんな高校生生活を送ったのですか。

勉強は好きでしたね。何のために勉強するかという前に、学んで何かを覚えることがとにかく楽しかった。米子には当時予備校はなかったけれど、高校の先生が自宅などで大学進学のための塾を開いていました。この塾で古文を教えてくれる先生がとてもユニークな先生で、「源氏物語」にまつわるいろいろな話を聞かせてくれたり、百人一首なども全部覚えさせたり、興味をもって学習できる塾でした。数学の先生も、日本の天才的数学者といわれる小平邦彦先生のエピソードなどを教えてくれました。
国語も世界史も大好きだったのですが、高校3年生の時に文系か理系かを選ぶときは医学部をめざそうと理系を選択しました。進路を考えるにあたって父から医者になれと言われたことは一度もなく、すべて自分の意思で決めました。塾の先生からは、2年生のうちに3年生の数学の教科書はすべて終わらせておくように言われて自習したのですが、案外できるもんなんだな、と自信になりましたね。

───勉強漬けだったように思えますが、クラブ活動などはいかがでしたか?

いえいえ、ラグビー部に入って、ラグビーに明け暮れていました。私が入学した年に身体の大きな生徒が何人か入部したこともあって、3年生の時にはすごく強くなって、鳥取県ではトップ、しかも春には山口、広島、岡山、鳥取のトップが覇権を争う中国大会で優勝したんです。
今でもその時のことは鮮明に覚えています。最初は岡山県の代表と当たって、その試合はかなりの大差で勝ちました。広島の会場で行われたのですが、岡山県代表に勝った夜に、広島のお好み焼きをみんなで食べていたら、ニュースで「高校ラグビー中国大会は、予想に反して鳥取代表の米子東高校が岡山県代表を破りました」と放送しているんです。「予想に反してだってさ」などと言って、大笑いしたものです。
決勝は山口県の代表と当たって、これも撃破、優勝しました。その日の夜、米子に戻ったのですが、駅のホームにOBたちが30人くらい集まっていて、凱歌を歌って歓迎してくれました。

───それは素晴らしい体験ですね。

とても感動しましたよ。米子東高校は甲子園大会にも出場するほど野球が強い高校で、凱歌は主に野球部のためのものだったんです。入学すると応援団にしばかれながら凱歌の練習をさせられた。なにしろ、授業時間にも校庭で練習するんですから。それを先生も大目に見ていた。そんな凱歌を、この日は私たちのためにみんなが歌ってくれたのです。高校の思い出のハイライトですね。

───それほど強かったとすると、花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)もめざしたのですか。

私たちラグビー部は全員進学志望で、医学部や難関大学を受験する生徒もいるわけです。花園は1月に行われるので、花園に行くためには3年秋に行われる中国大会で優勝し、その後も練習を続けなければなりません。受験勉強を犠牲にせざるをえないことから、3年の部員はみんな悩みましたね。それでも、とにかくやろうということで、中国大会に出場しました。そこでなんと決勝まで勝ち進んだのです。
決勝戦ではずっとリードしていたのですが、ロスタイムに追いつかれて引き分けてしまいました。そこでくじ引きで決めることになり、2年生のキャプテンがくじを引いたところ、負けてしまったんです。その部員は3年生に申し訳がないって泣くんです。でも、私たち3年生は「ああ、これで受験勉強ができる」って内心、ホッとしていたんですよ(笑)。
もっとも、同窓会などでラグビー部員が集まると、「あのとき、花園に行けたらなぁ」という話になりますがね。

ラグビー部の仲間たちと

ラグビー部の仲間たちと(最前列左から3番目が戸口田先生)

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