この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第23回 ロックミュージックとラグビーに明け暮れた青春時代 京都大学iPS細胞研究所 副所長/再生医科学研究所 教授 戸口田 淳也

Profile

戸口田 淳也(とぐちだ・じゅんや)
1981年京都大学医学部医学科卒業。研修医を経て、85年京都大学大学院医学研究科入学。89年同研究科修了後、京都大学医学部附属病院整形外科・医員。同年米国ハーバード大学医学部・研究員。その後、京都大学医学部附属病院をはじめ、京都市内の病院の整形外科の医員・医長を経て、95年京都大学生体医療工学研究センター・助教授。98年京都大学再生医科学研究所・助教授、同年米国メモリアル・スローン・ケッタリング癌センター・研究員、2003年より京都大学再生医科学研究所・教授。2008年より同大のiPS細胞研究の拠点であるiPS細胞研究センター・副センター長を兼務。2010年よりiPS細胞研究所(CiRA)副所長(兼務)。趣味は「少し走ってたくさんワインを飲むこと」。

profile
中学時代はロックに夢中になり、高校時代はラグビー部に入部。あと一歩でラガーマンがあこがれる「花園」に行けるところだった。戸口田淳也教授は、いま、日本だけでなく世界からも注目を集める京都大学iPS細胞研究所の副所長であり再生医科学研究所の教授として、iPS細胞を使った創薬や間葉系幹細胞に関する基礎研究に打ち込むと同時に、臨床医として骨肉腫や難治性の骨の病気の治療に全力投球する日々だ。

中学時代はギターかき鳴らして、ロックに夢中

───子どもの頃はどこで育ったのですか。

鳥取県の米子市で生まれて、18歳まで米子で育ちました。両親はもともと鹿児島県の加世田市(現・南さつま市)出身でしたが、父が鳥取大学医学部(当時米子医科大学)を卒業し、鳥取大学の整形外科の医師として米子にとどまったので、私も高校卒業まで米子で過ごしたのです。父は40歳のとき、米子市で整形外科を開業し、以後32年間、地域医療に力を注ぎました。開業当時私は10歳で、たしか米子では初めての整形外科の開業だったと思います。
小学校の頃で思い出に残っているのは、父親に連れて行ってもらったスキーのことでしょうか。米子から車で1時間ほどにある大山には、大学病院の出張診療所があり、父は時折そこに日直で診療に出かけるのですが、日曜日にあたったときなどは一緒に出かけ、1人でスキーをして過ごしていました。 そうそう、隠岐の島にやはり診療所があり、そこに父が赴任したことから小学校に上がる前の2年間ほどを過ごしました。なにしろ幼かったので海で遊んだぐらいの記憶しかないのですが。

───どんなことが好きな子どもだったんでしょう。

本を読むのは好きでしたね。両親が「世界文学全集」などを揃えてくれていました。小説だけでなく「シートン動物記」「ファーブル昆虫記」なども面白かった。もっともそれだからといって生物に関して特に興味を持っていたということはなく、昆虫少年でもなかったですね。蝶を集めたこともあったけれど、途中でやめてしまい長続きはしませんでした。
中学になると、陸上部に入部しました。本当は野球などの球技をしたかったのですが、野球部は全員坊主刈りで、すごく厳しそうだった。それはいやだなあと、もっとのんびりやれそうな陸上部に入ったわけなんです。小学校6年のとき、運動会で一番になって、自分では脚が速いような気がしていたのですが、いざ入ってみると、私より速い人はいくらでもいて(笑)、すぐに挫折しましたね。
中学生時代に一番熱中したのは音楽。ビートルズがそろそろ終わりかけ、ロック系が流行りだして、ウッドストック・フェスティバルが注目される、そんな時代でした。今の若い人には分からないかもしれないけれど、当時、アメリカがベトナム戦争に突入していて、それに反対するフォークソングも盛んな頃で、私もエレキギターだけでなく、アコースティックギターを弾いていました。
鳥取の田舎町の子どもにとっては遠い出来事でしたが、ベトナム戦争に反対して新宿駅の西口に学生たちが集まってフォークソングを歌っていたことも記憶にありますね。

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