この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第33回 がんの研究をして人の役に立ちたい。子どものころからの思いを実現。 北海道大学 遺伝子病制御研究所 分子腫瘍分野 教授 藤田 恭之

Profile

藤田 恭之(ふじた・やすゆき)
1965年生まれ。90年京都大学医学部卒業。3か月間京都大学医学部附属病院老年科で研修後、93年まで舞鶴市民病院に勤務。93年春に2か月間ウガンダ共和国で医師ボランティアののち、京都大学医学部老年科、大学院医学博士課程で学ぶ。94年大阪大学医学部分子生理化学教室、97年ベルリンのマックス・デルブリュック分子医学センターでポスドク。2002年ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのMRC分子生物学研究所にてグループリーダー。2010年より現職。

profile
幼稚園児のころ、高熱を出して診てもらったお医者さんに憧れて、将来は人の役に立つ医師になりたいと思った藤田先生。現在はオリジナルなアプローチで、正常細胞とがん細胞の相互作用を探究している。卒業旅行でアフリカでの医師ボランティアに携わり、30代でロンドンの大学でラボを率いた経験をもつ藤田先生、「サイエンスは世界との勝負。アイデアを大切に、国際的な視点を持ってほしい」と呼びかける。

シュバイツアーや湯川秀樹博士の伝記に夢中

───どちらで子ども時代を過ごしたのですか。

大阪府の高槻市で18歳まで過ごしました。高槻市は京都と大阪のほぼ中間に位置し、大阪まで約30分のベッドタウンです。当時はまだ緑がかなり残っていましたから、子どものころは近所の森でザリガニをとったり木に登ったりして遊んでいましたね。少し変わったところがあったようで、幼稚園の面接のとき、何が好きかと聞かれて「白菜とケーキ」と答えたらしい(笑)。なぜ白菜が出てきたのか、今もってわかりませんが(笑)。

───小学生のときに熱中したものがありましたか。

小学生のときは毎年クラスの学級委員を務めていて、ソフトボールと軟式野球に夢中になっていました。ソフトボールはピッチャーで4番、自分で言うのもおこがましいのですが、そういう意味ではリーダー格でした。
その一方で、本が好きで幼稚園のころから偉人の伝記などを読んでいました。伝記の中で面白かったのは、シュバイツァー、湯川秀樹、ベーブ・ルースなど。中でも湯川秀樹は日本人初のノーベル賞受賞者ということもあって興味をかきたてられたんでしょう。奥さんが湯川先生の研究の邪魔をしないように、冬の寒い中、廊下に出て子どもをあやしていたというエピソードに、子ども心に「そんな奥さんもらえたらいいなあ」(笑)。

小学生時代 自宅庭の鉄棒で(おそらく2年生のころ)

小学生時代 自宅庭の鉄棒で(おそらく2年生のころ)

5年生のころ 自宅の庭で

5年生のころ 自宅の庭で

───得意な科目は何だったのですか。

算数はめちゃくちゃ好きだったし、よくできました。中高校生時代は英語も得意科目でしたが、数学は本当に好きでしたね。大学は数学科で学ぶのもいいと思ったくらいですから。もっとも、大学の数学は高校レベルとは大違いで、到底歯が立たないとわかりましたが。
一方、理科は決して得意ではなかったし、好きでもなかった。だから今、生命科学をやっているのが不思議な感じがしますね。中高校生のころ、生物学や遺伝子について興味を持った記憶もないですしね。

───中学時代はどんな生活を送っていたのでしょう。

進学したのは奈良にある東大寺学園という中高一貫の男子校で、自宅からバス、JR、近鉄と乗り継いで片道2時間かけて通いました。朝家を出るのは6時半ごろ、卓球の部活に入っていて、県大会で決勝に進むほどの強豪でしたから練習もかなりハード。練習を終えるともうヘトヘトでした。部活が終わるのが6時、家に帰ると8時半、それから疲れた体に鞭打ち、眠気と戦いながらの勉強ですから、けっこう根性がつきましたね。
もっとも、通学がすべて苦労ばかりだったかというとそうでもなく、好きな女の子が西大寺~奈良の間の電車に乗っていた。男子校でしたから通学路は女子と出会える唯一の時間だったんです(笑)。

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