この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

恩師の「骨は拾ってやる」の一言で辛い留学時代を乗り越える

───医学部に入ってからは臨床医になるか研究者になるか、その選択に迷いはなかったのですか。
大学での授業中(おそらく3回生) 

大学での授業中(おそらく3回生) 

研究に興味があったので、学部の2年生のころからバドミントン部の先輩がいる公衆衛生学の教室や、医化学教室の本庶佑先生の研究室や沼正作先生など3つぐらいの研究室に顔を出していました。本庶先生や沼先生は世界でもトップレベルの研究者で、両教授の醸し出す哲学的な雰囲気を感じることができ、私もこうした研究者になりたいと思いましたね。京大自体が医学の基礎研究を重視する学風があり、基礎研究者は学生の中でも尊敬されていました。
ただ、厳しかったですねえ。たとえば、お昼に本庶研と沼研が合同の論文抄読会をやっていて、大学院生が論文を発表するのですが、論文の紹介の仕方が悪いと両巨頭の前で叱責されるんです。私は発表することはなかったので気が楽でしたが、院生の緊張ぶりが伝わってきました。
沼先生は他人に厳しいだけでなくご自分にもものすごく厳しくて、研究室を帰られるのが朝の5時ごろ、サイエンスにすべてを捧げる生活をしておられた。そうしたストイックな姿勢を見ることができたのは、その後の私の研究生活に影響を与えたと思います。

大学生1年 友達と訪れた下田にて

大学生1年 友達と訪れた下田にて

大学4回生 バドミントン部のダブルスのパートナー仲俣君と

大学4回生 バドミントン部のダブルスのパートナー仲俣君と

───研究生活を送る上で、研究室の先生との出会いはすごく大きなものなんですね。

研究内容はもちろんですが、私は指導教授の人柄に惹かれて研究室を選んだといえるでしょう。京大の老年医学講座の北徹先生は高脂血症の研究者として有名でしたが、講義が楽しくて、飲み会などでもすごく豪胆な方でした。それで私は「老年医学や高脂血症には興味がなく、ゆくゆくはほかの基礎研究をやりたいのだけれど、北先生の研究室に入りたい」と申し込んだところ、「面白いやつが来た」ととても喜んでもらいました。

───研究テーマについてはどのように絞り込んでいったのですか。

京大はそのころ神経医学の人気が高かったのです。みんなと同じというのは嫌いなので、誰も手を出さないがん研究をやろうと思ったわけです。
ただ、その前に生化学のテクニックを身につけておきたいと、臨床医としての経験を積んだあと、大学院は北先生の紹介で大阪大学の高井義美先生(現神戸大学)の研究室に行きました。その後、本格的にがんの研究をしていこうと考え、ベルリンのマックス・デルブリュック分子医学センターのW・ビルヒマイヤー先生の研究室にポスドクで留学しました。

───留学先ではどんな研究をされたのですか。

ErbB2というがん化に関わっている膜タンパク質があるのですが、このErbB2に特異的に結合して活性化する物質(リガンド)が見つかっていなかったんです。私は活性化するリガンドではなく、阻害するリガンドがあるのではないかという仮説を立てました。もしがんタンパク質の働きを妨げる物質が発見できれば、がん治療薬に結び付けられるだけにすごい発見になる。そんな野望をもって研究していったのですが、結論から言うとその物質は結局発見できませんでした。3年かけても研究データが取れなくて、このまま何の成果もあげることができずに研究者としてのキャリアがおしまいになってしまうのではないかと悩み苦しんだ時期でした。
そのころ父が京大の恩師の北先生を訪ね、先生から「息子さんはいまとても苦しんでいるらしいが好きにやればいい、骨は拾ってあげるから」と言ってくださったと聞いたんです。それで、ずいぶんと心が楽になったのを覚えています。
それから少し研究テーマを変え、細胞と細胞を接着させ、組織をつくる上で重要な働きをするカドヘリンに結合する新しいタンパク質の研究を行いました。そのタンパク質を解析したところ、細胞間の接着を外す作用があることがわかり、細胞をばらばらに分解してしまうので「Hakai(破壊)」と名付けました。結句、5年間のポスドク生活で論文はこの1本しか書けませんでした。
ドイツでのポスドク生活は辛いことが多く成功を収めたとはいえないのですが、研究者仲間とよく飲みに行きましたね。生命の進化や植物の研究など専門分野がばらばらでしたが、彼らと話をしてどんな研究分野でも一流のサイエンスは本当に面白いと、つくづく感じました。専門バカに陥ることなく、視野が広がってサイエンス全体を見る素地ができたと思います。

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