この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

研究ががぜん面白くなってきた

───大学に入ってからもやはりミュージシャンの夢を抱き続けていたのですか。

もちろんです。大学では軽音楽部に入りました。もっとも、東京薬科大学の軽音楽部は薬剤師の勉強をしながら軽音楽を楽しむ学生が多く、プロのミュージシャンを生む雰囲気ではなかったんです。そんな東京薬科大学から10年ほど後輩になるけれど、ケツメイシがメジャーデビューしたのですから驚きましたね。

───ミュージシャンを志しながら薬剤師としての勉強もしていたわけですよね。両立が大変だったのではないですか。

最初の頃は勝手がわからなかったこともあり、テストの結果は惨憺たるものでした。でも、「留年はかっこ悪い」というのが私のポリシーでしたから、1年の後期はちょっと真面目に勉強したところちゃんと試験に通った。要領が良かったんでしょうね。こうして留年することなく省エネで4年生になってその後の進路を決める段になって、就職すると音楽活動を続けられなくなるからと、大学院をめざすことにしました。
ところが、大学院に残るのはとても難しかった。成績の良い学生はもう指定席みたいにして受かることが決まっていたのですが、私はといえば、留年しないで済む最低ラインで進級してきたので成績が芳しくない。そこで人生で初めて猛勉強しました。誰も私が大学院に受かるなどとは思っていなかったと思います。ところが、受かった。教授も「狐につままれたようだ」と言っていたくらいです(笑)。最初合成化学に進むつもりでいたのですが、研究がハードだというウワサを聞いて急遽研究室を変更し、拾ってもらったのがDNAの研究室。そこからガゼン、研究が面白くなってきたんです。

バンド活動に明け暮れた大学時代

バンド活動に明け暮れた大学時代

───研究者になろうとしたきっかけはなんだったのですか

大学院に進んで研究を続けていた22歳から23歳の頃、このままミュージシャンをめざしていても無理なのではないかと、音楽の世界で生きていくのをあきらめ始めていたんです。研究は少し面白くなりかけたけれど、ミュージシャンの夢が消えたことで、人生の目標を失ってしまった。そんなときアメリカのアラバマ大学に留学していた先輩、いま明星大学で教授をされている清水光弘先生の帰朝講演があった。それがまるで中学生の時に文化祭でロックバンドの演奏していた先輩と同じように、すごくかっこ良く見えたのです。「夢に向かって進む」というのが私の信条で、私もアメリカへ行って研究したいと考えました。そのためにはドクターをとる必要があり、ドクターコースに進むことにしたのです。

───それからは、順調に研究生活一筋に・・・・?

いやいや、その後もいろいろありまして(笑)。博士課程に進むと親に伝えたら、「小中高とお前が勉強する姿は一度たりとも見たことはない。マスターまでならやむをえないが、ドクターとは何事か」と親父と大喧嘩したり、そのほか波瀾万丈だったのですが、そのあたりは省いてお話しすると、当時埼玉大学の客員教授でおられた理化学研究所の柴田武彦先生に出会い、柴田先生を生涯の先生と思い定めて、東京薬科大学のドクターコースを1年で辞め、埼玉大学の大学院に入り直したんです。研究者をめざすならとにかく日本で最高峰の研究室で一度学ぶ必要があると考えたからです。そこで成果が出せなかったらあきらめるけれど、トップを知らないで研究者に向いているかいないのかを語るのは論外だと思いました。
柴田先生の研究室で研究しているうちに、いよいよ研究が面白くなって、最初は「面倒は見ないから」とおっしゃっていた柴田先生も、私が本気で研究しているのを見てご自分がポスドクを過ごしたイエール大学のチャールズ・ラディングのラボに留学できるよう手配してくださいました。

PAGE TOPへ
ALUSES mail