この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

アメリカで学んだ日々

───初めての留学はいかがでしたか。

なにしろ英語もしゃべれないで初めて一人で留学するわけですから順調にいくわけがない。案の定JFK空港に着いた途端、強盗に遭っちゃったんです。空港で「迎えに来たよ」と話しかけられて車に乗せられて、雪降りしきる真冬のニューヨークのマンハッタンのど真ん中に、身ぐるみはがされて放り出されてしまった。今だからこうして笑いながらお話しできるけれど、本当に殺されるかと思いましたね。でも、それでもなんとかイエール大学があるコネチカット州ニューヘイブンにまでたどり着くことができました。おかげで生きる力がつきましたね(笑)。

───留学生活で友人はできましたか。

私は英語ができなかったけれど、身振り手振りを交えてコミュニケーションを図り、香港出身の中国人の研究者とすごく仲良くなりました。彼は親切にいろいろなことを教えてくれて、たとえばアメリカでは学位をとったら、研究室のボスに手紙を書いて職を求めることなど、研究者として生き抜く方法やアメリカでの生活をアドバイスしてくれました。

イエール大学への留学時代

イエール大学への留学時代

───当時はどんな研究をしていたのですか。
NIHでのポスドク時代

NIHでのポスドク時代

遺伝子がどのような分子メカニズムで子孫に伝わっていくのか、バクテリアの遺伝子組換の研究をしていました。結局これで学位をとったのですが、その後、バクテリアではなく、真核生物の染色体の遺伝子組換メカニズムを明らかにしたいと、染色体の構造と機能解析の専門家であるアメリカ国立保健研究所(NIH)のアラン・P・ウォルフのもとでポスドク生活を送りました。当初ウォルフから指示された研究はつまらないものだったんですが、それをこなすかたわら、バクテリアを使ってアフリカツメガエルの染色体構成タンパク質をつくるシステムをこっそり手がけていたんです。論文を書き上げたあと、次のテーマとして何をやるかウォルフに尋ねられて、バクテリアでカエルの染色体をつくる洗練したシステムをつくりあげたいんだとデータを見せて伝えたところ「Go ahead!」と許可が出て、ポスドクの最後の1年間はその研究に集中し、論文を仕上げることができました。

───その後、日本でポストを得たわけですね。

当初は日本に帰ってくるつもりもなかったんです。というのは、理化学研究所で研究をしていた当時、私の周辺は東大卒ばかりだったし、東京薬科大学のドクターコースは1年で退学している。研究者としての職を日本で見つけられるとは思っていなかったのです。けれども、柴田先生が親身になって世話してくださって、理化学研究所の横山茂之先生の研究室の研究員になることができました。横山先生が自由に研究をさせてくださったこともあり、結局6年間理化学研究所にいました。
あるとき、たまたま「ネイチャー」誌の公募記事を読んでいたら早稲田大学の電気・情報生命工学科で研究者を募集していて、知り合いやコネがあるわけではなかったけれど応募し、ポストを得ることができました。

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