この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

生物の先生の影響で筑波大学へ

───大学進学はどのように決めたのですか。

生物のおもしろさを教えてくれた先生が筑波大学の卒業で、キャンパスも広く自由な大学だと勧めてくださるので、筑波大学一本に絞りました。高校2年生のころから募集要項を取り寄せて、実験をしている学生の写真を見ながら、「絶対おれはこの大学に入る」って思っていました。

───では順調に筑波大学に合格した?

ところが、筑波大学しか眼中になく、筑波大学の入試対策しかしなかったのがまずかった。当時、筑波大学の2次試験は小論文形式で、各科目でそれぞれ大きな設問が2つだけ。そちらに集中していて、センター試験科目はほとんど勉強しなかったんです。そのためセンター試験の成績は最悪で、数学なんて理系なのに200点満点でなんと86点!(笑)。自己採点した段階で2次試験を待たずにこれでは筑波大学には入れないと思いましたね。親には「不合格になるから予備校の入学金を払ってほしい」と頼んで、実際、払ってしまった。 それでも、あきらめきれないで、ある日一人で筑波大学を見学に行き、やはり絶対入りたいと思ったんです。それで、2次試験の科目を猛勉強してなんと合格(笑)。たぶん2次試験はほぼ満点だったんじゃないかな。ちなみに、予備校の入学金は無事に戻ってきました。

───理学系ではなくて農学系を選んだのはなぜですか。

大学に入ったら生物学を勉強したいと思ったのは、高校時代の生物の先生の影響が大きかったですね。農学部を選んだのは、高校のころからバイオテクノロジーや遺伝子組み換えという言葉がよく聞かれるようになっていて、親の教えも影響していたのですが、こうした研究を実学に応用するには理学よりも農学の方がいいと判断したからです。
実際に大学に入ってみると、当時、多くの研究室では、たとえば大学近郊の土壌から新しい菌を探して、そこから有用な酵素をいかに効率よく精製するかというようなことが主流だった。でも、そんなことをしなくても、遺伝子をとる技術があり、菌の遺伝子を大腸菌に入れてやれば、大腸菌がいくらでも酵素を作ってくれる。そんな状況を見ていると、これからは遺伝子に触れないと研究にならないなと考えていました、そこで、農学部の中でも遺伝子の組み換え技術を使っている数少ない研究室である、馬場忠先生の研究室で勉強することにしました。

───大学院ではその馬場先生の研究室で学び続けたわけですね。当時はどんな研究に取り組んでいたのですか。

馬場先生はそのころ、精子に含まれるたんぱく質分解酵素であるプロテアーゼの遺伝子をノックアウトしたマウスをつくっていました。私はそのノックアウトマウスの解析をして、受精という現象の中でそのプロテアーゼがどのような重要な役割を果たしているのかを研究していたのです。
そのうち私は、本来は見えないたんぱく質の細胞内局在を可視化する「免疫染色」や、精子・卵子を培地で受精させる「体外受精」などの手法が研究に必要だと考えるようになり、馬場先生に相談したところ、三菱化学生命科学研究所に「武者修行に行って来い」と送り出してくれました。

───それからは研究者への道をずっと歩むわけですが、そもそも大学を出てから就職しようとは考えなかったのですか。

自分が会社で働いているイメージがわかなかった。会社の中で目標を立てて頑張る姿が浮かんでこないんです。大学2年生くらいに環境問題について学び議論する活動をしていたこともあって、もし社会に出るなら、「有機農業の農家になりたい」と考えていました。農家なら自分で目標を立てて工夫を凝らして切磋琢磨するというイメージがあったんだと思うんです。
実は4年生になったとき、馬場先生に「農家で有機農業をやりたい」と相談すると、「さまざまなものを吸収するには、若いうちがよい。有機農業は歳をとってからでもできる。お前はしっかり勉強しているのだし、いまは農業をやらずに、研究に専念したほうがいい」とアドバイスをいただいたんです。私は「それはもっともだ」と思いました。

───いろいろアドバイスをいただいていますね。

今から思うと、馬場先生には研究だけでなく、ものを考えるうえで大きな影響を受けました。ちょうど、4年生になる年の1月に阪神淡路大震災が起き、仲間はみんなボランティアに出かけ私一人が残っていたので、取り残された気持ちになったんです。私も行こうと思ったのですが、馬場先生から「行きたい気持ちはわかるけれど、みんなとは違う方法でも貢献できる。今一番すべきことを考えなさい」と言われ、そうした考え方があることを教えられましたね。

研究に明け暮れた大学院時代

研究に明け暮れた大学院時代

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