この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第36回 細胞に優しいライブセルイメージング技術で生殖医療に貢献したい 近畿大学 生物理工学部 遺伝子工学科 准教授 山縣一夫

Profile

山縣 一夫(やまがた・かずお)
1974年生まれ。1996年筑波大学第二学群生物資源学類、2000年同大学農学研究科応用生物化学修了。農学博士。2000年日本学術振興会特別研究員。2003年筑波大学生命環境科学研究科講師。2007年理化学研究所発生・再生科学総合研究センター研究員、2011年大阪大学微生物病研究所特任准教授を経て、2015年より現職。専門は生殖生物学。とくに哺乳動物の精子や卵子が作られる過程や、受精、その後の初期胚発生について「顕鏡で見る」研究を通じて、不妊症の解明や家畜動物の繁殖への応用をめざす。

profile
いくら練習してもサッカーはうまくならず、バンドもいまいち。「Bクラス人生だった」と笑う山縣先生。高校時代に出会った生物の先生の影響を受け、念願の大学で遺伝子組み換えを学ぶ。その後、生命の根幹である受精卵を壊さず、生きた状態で初期発生を顕微鏡で観察する“細胞に優しい”ライブセルイメージング技術を開発。不妊症などの生殖医療に応用して人の役に立ちたいと、研究に明け暮れている。

サッカーが上達せずに断念した小学生時代

───子ども時代はどこで過ごしましたか。

両親が大阪出身で、大阪で生まれてすぐに神奈川県横浜市の金沢文庫に引っ越してきました。三浦半島のはずれで周辺は海だったので小学生のころはよく釣りに行きました。山も近くにあり自然豊かな環境でしたね。山に入っては木に縄をくくりつけてブランコを作ったり、枝の上に板を置いてそこで寝たり、アスレチックを自分で作って遊んでいました。マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」に出てくるハックルベリー・フィンを地でいってた(笑)。いま思えば親がよくそんな危ないことを許してくれたもんだと思います。内向的なところもあったけれど、外で遊ぶのは大好きでした。

───スポーツはいかがでしたか。

小学校に入ってからサッカーを始めました。小学校3年のころには「キャプテン翼」の連載も始まっていて、Jリーグはまだ発足していませんでしたが、けっこうサッカーの人気は高かったんです。
といっても、けっしてうまい方ではありませんでした。レベルが上のAチームと下のBチームに分かれていて、万年Bチーム。練習には一度も欠かさず出て、みんながイヤがる走り込みもせっせとやって、ユニフォームを泥だらけにして練習に明け暮れていたのに、まったく上達しない。結局Aチームには一度も上がれませんでした。簡単に言うと運動神経がなかったんですよね。球がどっちに転がるか予測できない。脳科学的に分析すると、小脳の働きが良くなかったということだと思います(笑)。

───いまはそうして客観的に分析できるけれど、当時は悔しかったのでは。

もちろん。だから居残り練習もしたし、家に帰ってからリフティングの練習もしました。それでも、まったく芽が出なかったですね。人には持って生まれた能力ってあるんだ、そう自覚しましたね。それで、4年生のときにサッカーは断念しました。
入れ替わりに、いわゆる「お受験」の準備が始まりました。私は第二次ベビーブーム世代で競争がシビアだったし、神奈川県には数多くの私立中学があり受験戦争も激しかった。ある進学塾に入ったのですが、その塾では同じ授業料を払っているのに正会員と準会員とに分けられるんです。要するに「頭がいい、成績の良い軍団」が正会員で、そうでないのが準会員になるわけです。私はずっと準会員、そう、サッカークラブでBチームだったのと一緒です(笑)。

───学科で得意なものはありましたか。

理科は好きでしたね。算数は父親から毎週土曜日に教わりました。これが嫌で嫌でたまらなかった。できないと怒鳴られるんです。土曜日だけは世界が灰色に見えた(笑)。でもまあ、算数をそうして教えてもらっていたので理数系は結構成績は良かったんです。でも、ものすごく飛び抜けて成績が良かったわけでもなく、中学はいろいろな学校を受験したけれどすべて落ちて、最後に受けた中高一貫の学校に二次で拾われました。いわゆる補欠合格というやつです。母親は「受験で落ちて悔しくないのか」と私を責めましたが、私はあまり悔しいとは思わなかった。母親に責められるものだから、嘘泣きしてましたね(笑)。
それよりも、とにもかくにも受験が終わって、もう勉強しなくてよいという喜びが大きくて、友人と山の中に残っていた防空壕の探検などをウキウキ気分でやっていました。

小学生のころ

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