この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

中高校生時代はバレーボールに熱中

───日本に戻ってきたのはいつですか。

小学6年の 1学期の途中で、目黒区の大岡山の小学校に編入しました。小学校の入学式と卒業式は日本でやって、それ以外はインドネシアで学んだことになりますね。
日本の学校に転入すること自体は、これまでも転校を経験しているので、違う環境に溶け込むことには違和感はあまりありませんでした。けれども、授業内容に関しては戸惑うこともありました。なにしろソロバンなんてインドネシアでは教えてくれないし、理科の授業でもアサガオの種なんて蒔いたこともない(笑)。授業の基礎が全くないに等しかったですね。
漢字については、インドネシアにいるとき両親も書けないと困ると心配して教えてくれたのですが、あまり熱心に取り組んだ記憶がなく、なかなか書けませんでしたね。ただ、本を読むのは好きだったから、読むことには苦労しませんでした。キュリー夫人、シュバイツアーなどの伝記を読んでいました。それから、ちょっと変わったところでは、生物学者で博物学者の南方熊楠が好きだった。

───慣れるかどうかのうちに、小学校は卒業、という感じだったのかもしれませんね。

ええ、目黒の公立中学校に進学するころには、学科の面でもあまり困ることはなく、スムーズに学校生活を送ることができました。小中学校を通じて、だいたいどんな科目も好きでしたね。
進学した中学校はバレーボールが強くて、人気があったため、バレー部に入りました。目黒区の区大会でいつも優勝するようなチームで、私は一応、レギュラーメンバーに入っていました。バレーボールは高校に入ってからも副キャプテンを務めました。高校の練習はきつくてしんどい3年間でした(笑)。

都立青山高校時代。バレーボール部の集合写真(前列でタテを持つ)

都立青山高校時代。バレーボール部の集合写真(前列でタテを持つ)

───高校時代に文科系の部活はしなかったのですか。

部活はしていなかったけれど、バンドをやっていました。たまたまピアノが弾けたのでキーボードを担当していたんです。軽音楽部に入っている本格的な人たちとバンドを結成していたので、かなりのレベルでした。渋谷のライブハウスでビートルズやディープパープルなどロック系のものを演奏していましたが、音合わせなどをする時はとても楽しかった。

───高校に入ってからは勉強の方はどうだったのでしょう。

バレーボールに全力投球していたので、勉強の方がお留守になり、成績は良くなかったですね。成績が悪くても昔から両親はあまり口うるさく勉強しろとは言いませんでした。自由にやらせてくれる親でしたね。
進路選択に当たっては、英語は海外にいたこともあり得意だったので、文系に行こうかなとも考えたのですが、父親が手に職をつけた方がいいから理系に進んだらどうかとアドバイスしてくれました。
私も、自分の将来の夢として、小学校の時には伝記を読んでいたせいか科学者になりたいと思っていたので、それならやはり理系に進もうと考えを変えました。理系の中でも科学の本質は物理にあると考えていて、大学では物理を学ぼうとも思ったんです。でも、勉強をしていなかったので、物理は無理だなと。それと、医学部に進学したいという思いもあり、最終的に理学部で生物学が学べるところを受験しました。

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