───医学のどの分野を専攻するかは、どのように決めたのですか。
大学3年生のときに病理学教室に出入りするようになりましたが、最終的に決めたのは6年生が終わるころ、卒業間近になってからです。医学部に入って臨床医にならず基礎系の研究者の道を選択するのには、将来の生活展望を含めてそれなりの決意が必要でした。
研究者への道を選んだのは、面白いとか興味があるなどというよりも、一種の使命感からでした。成績もまぁ良かったし、一人の患者さんを治すことも大切ですが、大勢の患者を治すための自分でなければできない研究があるはずだと、半分うぬぼれもあったかもしれません。その中で病理学を専攻したのは、まったくの基礎医学の研究室に行くよりも、患者さんにより近い病気の研究ができると考えたからです。
それと、当時講師だった長嶋和郎先生(北海道大学名誉教授)のスローウイルスについての講義を聞き、この病気を研究したいと考えるようになったことがきっかけとしては大きかったと思います。ウイルスの潜伏期間は通常数日以内ですが、スローウイルスは潜伏期間が異常に長いことで知られています。スローウイルスの代表的な感染症がクロイツフェルト・ヤコブ病ですが、私が研究したのは「進行性多巣性白質脳症」という病気でした。
───あまり聞いたことのない病気ですが、どんな病気ですか。
スローウイルスの一種である「JCウイルス」が潜伏していて、HIVに感染したり(エイズ)、抗がん剤の作用で免疫力が落ちたようなときに活性化して発症します。脳に炎症を起こしてあちこちに虫食い状の病巣ができるのですが、神経細胞の軸索を包んでいる髄鞘という部位が変性してしまうため、認知力や運動能力が急速に低下していく病気です。
当時はまだ培養細胞でウイルスを作ることはできていなかったので、ウイルスのゲノムのどの部分が変異し、どんな塩基配列でいかなる性格を持っているのかなど、JCウイルスの遺伝子解析に学部から大学院時代にかけて取り組んでいました。ちょうど分子生物学の黎明期で、東大の病理学教室には遺伝子を解析する設備がなかったので、東京都神経科学総合研究所(現・東京都医学総合研究所)に出向いて研究しました。
───遺伝子研究や分子生物学に接して、研究の方向性が見えたということはあったのでしょうか。
そうですね、これからはDNAの配列を探求するなど分子生物学の研究ができないと仕事にならないという感じは持ちましたね。ただ、大学院時代に遺伝子解析に取り組んだといっても、なかなか成果は出せませんでした。原因のひとつに、日米を比較したとき、当時の日本ではまだ分子生物学を研究するための設備も材料も圧倒的に不足していて、欧米に伍した研究をするためには、海外に留学しないとだめだと考えました。
───研究のかたわら、大学から大学院時代に打ち込んだことがありますか。
東大のスキー山岳部、通称TUSACに入部しました。ここで医学部以外の友人ができたことは非常によかったと思います。このクラブは大正12年に創部された旧帝国大学から続く伝統を誇る山岳部で、10年に一度くらい海外遠征をするのです。遠征にあたっては、氷河・気象・高所医学調査などを名目とする「学術遠征隊」と銘打って、教授を遠征総隊長として出向きます。
大学院時代の1984年に、パキスタン・カラコルム山脈の標高6934メートルのK7峰を目指す「カラコルム学術登山隊」に参加しました。K7の上部はまるで巨大な岩塔で、それまで6隊が挑戦して失敗していました。私たち遠征隊は、中村純二総隊長夫妻以下、隊員はヒマラヤが初めての学生が6名。約2カ月をかけてアタックし、天気にも恵まれ、コース取りも良かったことから、6名全員がK7の頂上を極めることができました。
▲1984年8月9日、K7(6,934m)頂上。背景はチョゴリザ(7,665m)