───最先端の分子生物学の知識と技術を吸収しようと、アメリカに留学したわけですね。
最初はJCウイルスの研究ができる留学先を考えていたのですが、JCウイルスはネズミに導入するとがんを発症するけれど、ヒトではがんを発症しないのです。このままJCウイルスの研究をしていても、ヒトのがん研究にはつながらないと考えて、長嶋先生の勧めもあって、ロックフェラー大学でウイルス発がんの研究をしていた、故・花房秀三郎先生の研究室に留学しました。
───ロックフェラー大学での研究は順調でしたか。
私は大学院修了後は国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)に在籍していて、そこから出張という形で留学したため、2年間という期間が厳密に定められていました。その短い期間で成果を上げて、論文をまとめなければならない。まあ、同じウイルスの研究だから何とかなるだろうと考えて行ったのですが、やはり分野が違うため、慣れるまでに半年から1年もかかってしまいました。トライ&エラーが続くばかりでまったく結果が出ず、大いに焦りましたが、幸い、後半の1年間でいい仕事ができました。
───それはどんな研究だったのですか。
Crk(クラック)というがん遺伝子の研究です。当時、さまざまながん遺伝子が知られていましたが、それぞれのがん遺伝子がどのように情報伝達をしてがんを引き起こすのか、そのメカニズムがわかっていなかったのです。
私たちは、がん遺伝子Crkがほかの情報を伝達するタンパク質分子とくっついたり離れたりする現象が、チロシンというアミノ酸のリン酸化によって制御されていることを発見しました。
それまでは、細胞増殖が誘導されるにあたっては、細胞膜上に存在する受容体に刺激が与えられると、カルシウムイオンやジアシルグリコロールといった低分子化合物が産生され、細胞内に広がっていくという「セカンドメッセンジャー」といった考え方が支配的でした。それが私たちの発見によって、細胞膜付近で受け取られた情報は、タンパク質分子があるタンパク質分子にくっつき、それがまた他のタンパク質分子にくっつく・・というふうに次々に分子間で情報が手渡されていくことで、増殖や運動などの指令が細胞の核へと伝えられるという新しいコンセプトが導かれたのです。
私たちの細胞内では分子同士でコミュニケーションをとっていて、ある分子がほかの分子に情報を送ることを「シグナル伝達」と言います。私たちが研究したがん遺伝子の情報伝達の仕組みは、一般的な分子間の情報伝達の仕組みにもあてはまり、シグナル伝達の普遍的なメカニズム解明につながっていきました。
この研究論文は1990年に米国の「サイエンス誌」に掲載されました。今では当たり前となったシグナル伝達のコンセプトですが、私たちの研究がその先駆けのひとつとなったのです。