この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

神経科学者の大叔父の影響を受ける

───中学校時代に何か変化はありましたか。

中学2年生のときに父の仕事の関係でニューヨークに行くことになりました。海外に行くことにとくに不安はなく、むしろ、ほかの国で違うことを体験するのは楽しそうだと思っていました。
ニューヨークのパブリックスクールに通ったのですが、日本と違い、自分の選択している科目ごとに生徒がそれぞれの教室に移動するのです。それがとても新鮮でした。

───授業についていくのが大変だと感じたことはなかったのですか。

当初、英語がそれほどできなかったこともあってキャッチアップが大変だったけれど、なんとかなるもので、無事に進級し、(親の帰国もあり)早く卒業することができました。それに絵や音楽が得意だったこともあって、絵画の先生などは「放課後に絵画の教室に来て好きなことをしていてもいいよ」と言ってくれて、友人と一緒に作品をつくったり。あと学校のピットオーケストラ(ミュージカルのオーケストラ)にも参加し、学校生活をエンジョイすることができました。

───夏休みなどはどんなふうに過ごしたのでしょう。

単位が修得できるサマーキャンプに参加したり、家族でサンフランシスコを観光したり・・・。それと、大叔父(注:世界的な神経生物学者の田崎一二氏、神経線維における活動電位の伝わり方の研究で知られる)が夏の間、マサチューセッツにあるウッズホール海洋研究所でヤリイカの神経の研究をしていて、オシロスコープを使って実験している様子を見せてもらったことが強く印象に残っています。

───その頃、将来何になりたいか考えていましたか。

画家や音楽家になりたいと漠然と考えていたとお話ししましたが、実際にその分野でやっていこうとするとすごい才能が必要になります。さすがにその頃にはプロのアーティストの道に進むのは無理だと思いました。大叔父の影響もあったと思いますが、生物学を専攻してみようと考えたのです。

───筑波大学の生物学類に進学を決めた理由は?

当時、帰国子女枠で9月入学ができた医学・生物系の国立大学が、筑波大学くらいだったからです。あの頃、生物学を学びたい気持ちと、もう一つ、がんなどの病気の原因を突き止める研究をしたいという思いも持っていて、臨床には興味がないけれど、基礎医学が学べるところがいいと考えたこともあります。筑波大の生物学類は、3年生になって学部の専攻が分かれるときに、生物学を学びながら医学系で卒業研究ができ、医学修士課程にも医学博士課程にも進めるようなシステムとなっている点も魅力でした。
それと先ほどお話しした神経学者の大叔父の子息が筑波大学の基礎工学類の教授をされていて、「自宅から通えないけど親戚がいるんだったらいいじゃないか」と両親が賛成してくれたことも大きいですね。こうして、17歳の9月、他の人より半年早く大学生になったわけです。

───大学時代から研究者をめざして一生懸命勉強したのですか。

いえいえ、音楽活動に夢中で、ちっとも勉強しなかったんですよ。3年生のときにはオーケストラのコンサートマスターもやっていて、それこそ大忙し。留年こそしませんでしたが、私が大学院に進むといったら、みんな驚いていました。大学院に進んだあとは、人数が足りないときにオーケストラの助っ人に加わるくらいで、一生懸命、研究に打ち込みました。

大学時代はほとんど音楽に費やした

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