この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

授業に出ずに実験に夢中になった大学時代

───三重大学医学部に入学してどんな学生生活を送っていたのですか。

いろいろなサークルに顔を出していました。夏は陸上、冬はスキー、春と秋はESSでディベートしたり。スキーは県大会で3位、ESSのディベートでは東海地区で優勝しているんですよ。そうそう、バックパッカーだったんです。世界中を飛び回りたいと思っていて、リュック背負ってシベリア横断鉄道に乗ったりしていました。

マダム・タッソー館(蝋人形館)にて(イギリス)1979年3月1979年3月

ストラットフォード=アポン=エイヴォンにて(イギリス)

スチューデントパス

───大学時代にはどんな分野の研究に興味を持っていたのですか。

3年生のとき、ヒマだったので「JAPAN TIMES」なんかを読んでいたら、当時薬理学講座の助手をされていた田中利男先生から「おもしろい研究室があるから来ないか」とリクルートされ、当時大学院に在籍されていた遠藤登代志先生のもとで実験の手ほどきをしていただきました。
大学の授業よりもその薬理学教室で実験している方が楽しかった。夜中に終わったばかりの実験のデータを一人で見ながら、「世界中でこの発見を知っているのは、オレだけだ」という快感がありましたね。ほとんど大学の授業には出ずに、実験室に泊まり込んでいたものだから、「萩原、大学辞めたんだって」という噂が流れたらしい(笑)。そのときに後から製薬会社から実用化された薬も発見しているんです。薬理学教室の日高弘義教授から「この研究で論文を書いてみたら」と言われて、学部学生のときに2報の英文論文を書きました。

───すると医学部を卒業するときには、臨床医ではなく研究者をめざそうと考えたわけですね。診療所を開いていたお父さんは反対なさらなかったのですか。

父に「これからどうするつもりだ」と聞かれたので、「基礎研究をするつもりだ」と答えたところ、「そうか」と肯いてくれました。
ところが「大学院に入ってからでも、1、2年は臨床研修をやろうと思っている」と言ったとたん、怒り出したんです。「そんな中途半端な気持ちで研究などするな。だめだったら臨床医になるなんて保険をかけていたら、まともな研究者にはなれない。大学院に入ったらすぐに研究を始めて真剣に自分の才能を試しなさい」と言うんです。
実に、お説ごもっともで(笑)。もし、中途半端に臨床研修を受けていれば、実験が行き詰まったときなど、研究を投げ出してしまったかもしれない。あのとき、父が迷いを断ち切ってくれたことに感謝しています。

───それで、研究一筋できたわけですね。

研究室の日高教授が大変厳しい方でしたから、とにかく一生懸命でしたね。その先生との間には面白い話があるんです。大学院2年のとき、日高先生が出席する学会がカナダであったんですが、先生は有名な方ですから別の学会からオファーが舞い込んで、日程が重複してしまったんです。
そうしたら、「私の代わりにカナダの学会に行って講演してきてくれ」というわけです。若いということは恐ろしいことで、「旅費が出るなら行きます」って引き受けてしまった。

ところがそのカナダの学会には、世界の名だたる研究者が出席していて、大人の中に子どもが紛れ込んだようなものなんです。しかも、そこで私は英語で招待講演をしなければならなくなった。

───それは大変なことですね!

そうなんです。そのとき、短期間ではあったけれど、生涯で一番真剣に英語を勉強しましたね。その学会で出される英語の要旨集を集中して全部読みました。人間死ぬ気でやればなんとかなるもので、学会で話されている世界のトップレベルの研究者の話の内容が理解できるようになるんです。
話を聞いているだけでなく、私は講演をしなければならない。問題は質疑応答でどう切り抜けるかです。私の特技は、高校時代からヤマをかけること(笑)。その特技をここで活かして、どんな質問が来るかヤマをかけた。だいたいのヤマは当たって、何とか20分くらいの講演とその後の質疑応答を切り抜けることができました。すると、講演を終えてから、世界のトップレベルの研究者の私を見る目や待遇が急に変わったんです。それまで、「たかが東洋人の若造が」という感じで全く無視されていたのですが、講演の後に握手を求められたり、大人扱いされました。
そのとき、「ああ、サイエンスっていいな」と強く感じました。人種や年齢に関係なく、きちんとした仕事や優れたアイデアを称賛するというフェアな態度に、強い感銘を覚えました。

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