この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

第46回 治療が不可能といわれる難病を、創薬によって治したい 京都大学大学院医学研究科 形態形成機構学 教授 萩原正敏

Profile

萩原正敏(はぎわら・まさとし)
1984年三重大学医学部卒業。1988年名古屋大学医学部薬理学講座助手。1991年米国ソーク研究所でポスドク。1992年に帰国後、名古屋大学医学部解剖学第3講座助手、講師、助教授を経て、1997年東京医科歯科大学難治疾患研究所教授。2003年同大学大学院疾患生命科学研究部教授。2010年より現職。未知の遺伝子発現制御機構の解明と難病治療薬の開発に挑んでいる。

profile
子どものころ漢文の素読に親しみ、中学生時代にデカルトの「方法序説」の読書感想文を書いたという萩原先生。祖父の代から地元で診療所を開いていたことから医学部に進むが、やがて研究を通じて難病に苦しむ世界の患者さんを救おうと、研究者への道を歩み出した。DNAの変異によって発症する遺伝性の難病を、遺伝子の転写後に修復する薬の開発に情熱を傾ける毎日だ。

三重の山奥で山野を駆け巡り、哲学書を読む

───子ども時代をどこで過ごしましたか。

三重県の鈴鹿山脈のふもとにある、今はいなべ市となっていますが員弁郡(いなべぐん)で生まれました。今でもすごい田舎で、サルやシカが出没する(笑)。私の育った家は戦国時代に織田信長を暗殺しようとした杉谷善住坊が先祖だとする伝説があるんです。暗殺に失敗した善住坊は、信長に追われて三重の山奥のこの隠れ里に住んだというんですね。それにしても、なんでこんな山の中に住んだのかと思いましたね(笑)。
小さなころは、地元の神社の空き地で野球をしたり、川で魚を釣ったり、凧を手作りして揚げたり、冬はソリ遊びと、野山を駆け回って遊んでいた記憶があります。昭和30年代に子ども時代を過ごしたのですが、とにかく田舎ですから、当時、トイレは水洗式ではなく汲み取り式で、人糞を馬車で回収していたくらいです(笑)。坂道で登れなくなった馬車を押したり、干し草などが乗っていないときは荷台に乗せてもらったり。そうそう、小学生のとき、初めて町に交通信号がついて、それを見に行った(笑)。

三重県員弁郡(現・いなべ市)の実家にて 母と(4歳ごろ)

実家の縁側にて(4歳ごろ)

───勉強のほうはいかがでしたか?

そろばん塾はあったけれど、いわゆる学習塾がなくて、都会の子どものように親から勉強しろと言われた覚えがなかったですね。宿題は学校にいるうちにすませてしまい、家で勉強はしていませんでしたから、PTAの集まりのとき、親が先生に「少し宿題を出してほしい」と頼んだらしい(笑)。
特別に好きな科目、嫌いな科目はなかったですね。ただ本は好きで、小学生のときビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読んで、主人公の悲惨な人生に「こういうことがあってはならない!」と、すごく感動したのを今でも覚えています。
それと家に平凡社の百科事典が揃っていたので、趣味でめくって読んでいました。父の書斎に「日本の歴史」や「世界の歴史」が何十巻もあり、それも片端から読んでいった。強制的に読まされたわけではなく、好き勝手に読み漁っていたからか、かえって身につき、今でも歴史オタクですよ(笑)。
ただ、歴史を学んでも現在や未来を変えることはできないと思い、歴史学の研究者になろうとは思わなかったですね。

───お話をうかがうと、お父さんの影響も大きかったようですが・・。

そうですね、父は満州医科大学(現中国医科大学)で学んだ人で、「和漢洋が読めないようではインテリではない」と言って、私に『論語』を読めと言うんです(笑)。さすがにそれは・・・と思いましたね。ただ、そうした父の古いものに対する価値観は理解でき、素読を通じていくらかは漢文なども読めるようになりました。
中学生のころ、デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学書を読んだのも、父の影響があったのでしょう。中学1年生のときの夏休みの作文の宿題で、「デカルトの方法序説を読んで」を書いたんです(笑)。
哲学に興味を持ったのは父の影響もあったけれど、自分でも「世界とは何だろう、人間とは何だろう、人はなぜ死ぬのか」という哲学的な問題に興味を持っていました。

───うーん、旧制高校時代の話を聞いているようです。友達もさぞ驚いていたのでは。

ええ、バスケットボール部に入っていて友達は大勢いたのですが、すごい田舎の中学校でショーペンハウエルがどうのこうのと言っても、誰もまともに聞いてくれなかった(笑)。

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