この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」

留学中にCell誌に論文を発表

───大学院卒業後はどのように?

大学院4年のときに日高先生が名古屋大学に転任されたので、三重大学大学院に籍を置いたまま名古屋大学に移り、学位取得後に薬理学講座の助手に採用していただきました。2年ほど経って、mRNAの転写制御の分野を海外で研究しようと考え、海外の研究者に10通以上手紙を書きました。できるならあまり大きなラボではなくて、ボスはラテン系の方が気が合いそうだと、条件を絞っていきました。
そうしてたどり着いたのが、米国・Salk研究所のMarc・Montminy博士でした。当時はeメールなどありません。留学希望の手紙を送ったことをすっかり忘れていたときにSalkから突然電話がかかってきて、「どんなことをやりたいのか」と聞いてきたので「やりたいテーマが2つある」と具体的な研究のアイデアを提案したところ、嘘かほんとか真相は分かりませんが「自分もその研究をしたいと考えていた。すぐ来い」と言って採用してくれました(笑)。
91年に渡米し、SanDiego空港からレンタカーを借りてSalk研究所に行きましたが、実はMontminy博士の顔も知らなくて、研究所で聞いて回ったところ、「自分のボスになる人の顔も知らないのか」とあきれられましたね(笑)。

───Salk研究所はどんな雰囲気でしたか。

研究室に着いたその日に、Montminy博士から「明日君の研究についてラボのみんなにレクチャーしてくれ」と命じられました。ボスは内心そんなに多くを期待していなくて、半分ジョークだったんでしょう。けれど、たどたどしい英語ながら研究内容について発表したところ、それまでよそよそしかったラボのメンバーが仲間として受け入れてくれました。そういうことができたのは、日本の研究室で日高先生に厳しく鍛えられたからだと思います。
日高先生は、「『Nature』『Science』『Cell』の3大科学誌に論文が載るまでは帰ってくるな」と送り出してくれたのですが、渡米10か月後にCell誌に論文を掲載することができ、ほっとしましたね。

Salk研究所留学時時代、サンディエゴ バルボアパークにて 長男・長女と。1991年9月

───海外でずっと研究を続けようとは考えなかったのですか。

日本で研究をやりたかった。欧米の研究者に負けない研究を日本でやることに意義があると感じていたんです。それで、1992年に日本に帰り、名古屋大学医学部解剖学第3講座の若林隆教授のもとで助手を務めることになったのですが、研究費も研究材料もなかった。私は若い学生を捕まえては「生命の新しい制御機構を見つけて新薬をつくる」と、夢のようなことばかり言っていました。一時は膨大な借金を抱え、お金がなくてパン屋の店先に捨ててあった冷蔵庫を研究室にもらってきたりしていました(笑)。それでも、熱意のある学生たちが集まってくれたので、楽しく活気のある研究室だったですね。
その後、東京医科歯科大学難治疾患研究所から声がかかり、教授として転任することになりました。借金もあったので必死になって研究費の申請書を書きまくり、そのうちのいくつかが審査を通って潤沢な研究資金を獲得することができたのです。
そこで名古屋大学に残していた学部生や大学院生たちが東京に移ってきてくれて、研究を軌道に乗せることができました。それから2010年に京都大学からお誘いがあり、研究生活を続けているわけです。京都大学は、自由に研究できる風土があり、私のようなある意味では変わり者でも許容してくれる懐の深さがあるので、私には合っていると思います。

PAGE TOPへ
ALUSES mail