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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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資格が必要と、臨床検査技師を養成する短大へ

世界を驚かせる発見をした一二三先生だが、意外なことに、研究者になろうとは考えてもいなかったのだという。どのようなプロセスでこの道に進むことになったのだろう?

———先生は、小さいときから研究者をめざしていたんですか?

いえいえ、研究者になろうなんて、実は大学の助手になったときでさえ思っていなかったんですよ。

———えーっ! じゃあ中高生のころはどんな生徒で、どんな目標を持っていたんですか?

母が看護師で、救急病院に勤めていました。急患が入ると定時には帰宅できないこともあったし、休日出勤や当直も担当していました。父は普通の会社員で、3つ下の妹がいたので、母が仕事で不在の間は、家事は私の役目で、私にとっては正直なところ負担が大きかった。けれど、母のきょうだいなどを見ていると、子育てが一段落したあとにさあ仕事に就こうと思っても、女性の場合なかなか職がないし、あったとしても収入が少ないといった例を目の当たりにして、働くなら母のような資格が必要だなと感じていました。

———看護師は国家資格ですものね。

そのころは、資格といっても先生か薬剤師か看護師ぐらいしか思い浮かばなかったんです。どちらかというと理系の勉強が好きだったので、医療に関係した資格がいいと考えたのですが、母を通して仕事と家庭の両立の難しさを見ていたので、私に看護師は無理。実家から通える範囲に山口大学の医療技術短期大学部(現・山口大学医学部保健学科)があり、臨床検査技師を養成するコースがあったので、そこに入学しました。この学校は専門学校から3年制の短大になったばかりで、前身の衛生検査技師養成学校は日本で2番目ぐらいに古い歴史のある学校でした。ですから当時の先生たちは皆、教育に一生懸命で、とても誇りを持っておられました。

———どんな教育を受けたのでしょう。

まず、実習がものすごく厳しかったですね。当時はすでに検査に自動分析装置などが入ってきていたのですが、「機械に使われるようではだめだ」「機械が壊れても対応できなくてはいけない」と、手順ではなく理屈を理解することや、自分の目でデータをしっかり判断することの重要性をたたき込まれました。
専門教育だけではなく、社会人としての心得も厳しく教え込まれました。「健康管理は社会人として必要なことであり、仕事のうち。だから風邪は欠席の理由になりません」「同じ実習は2度とないので、実習を欠席したら単位はあげられません」とも言われました。あのころは素直でしたから(笑)、先生にそう言われたら「そうなんだ」と思っていましたね。

短大2年の萩市での夏キャンプ(前列左)

———卒業後の就職先は?

検査センターや病院などではなく、化学系の企業に就職しました。その会社で検査技師を募集しているらしいという話を聞いて、チャレンジしたら運良く合格して、研究所の医薬研究部に配属されました。
ところが、いざ入ってみると学生のときに経験したのと同じものはひとつもない。抗原抗体反応を利用して抗原の濃度を測定する「酵素免疫測定法」などは、会社に入って初めて経験しました。学生のときは「そういう方法があるけれど、試薬が高いからこれだけは実習させられない」と言われた測定法なんです。このようにまるで経験のないことの連続でしたが、学生のときに相当厳しく鍛えられていたので、失敗することがなかったのは幸いでした。
でも会社に入ったその日に、部長にフロアを案内してもらったときのカルチャーショックは今でも鮮明に覚えています。何しろ世界が違う。研究所なので、そうそうたる大学の大学院を修了された方ばかり。「どうしよう」と思いました。「何でこんなところに来たんだろう」と、すぐに辞めたくなりました。
とはいえ、すぐ辞めるわけにもいかないので、とにかく1年は必死にがんばって、それでもやっぱりやっていけないと思ったら辞表を出して病院に再就職しようと決めたらラクな気持ちになりました。

———何か心がけたことはありますか?

短大時代は「一歩二歩先を考えて動きなさい」とか、「自分でやることを見つけられなくてはだめだ」と教え込まれていたのに、まわりの人に教えられないと自分で何をやったらいいのかわからない状態だったんです。でも、帰るときにはゴミを集めて帰るとか、朝早く出勤したら乾燥機に入っている器具を真っ先に片づけるということなら習わなくてもできます。とにかくできることを探すことから始めようと。
与えられた実験については、学んできたことすべてを動員して精度を管理し、「誤りのないデータを出すこと」を心がけました。すると、想定外の結果であっても私が出したデータを上司が信頼してくださり、いろいろな実験を任せられたりして、少しずつ自分の居場所ができてきました。

———そうして、1年が2年になり、3年に・・となっていったわけですね。

結局その会社には7年いました。そのときには自覚していませんでしたが、振り返ってみると、とにかく何でも一生懸命やりなさいと学生時代に教えられたことが支えになったのだと思います。一生懸命やっていればまわりから信頼されるようになるし、信頼関係ができれば困ったときに助けてくれる人が出てくる。何かあったときに次につながる機会も得られるものです。「1年間、死に物狂いで」と思ったままの7年でしたから、「アフター5を楽しみましょう」といった余裕もありませんでしたが、若いうちにそういう時期って必要なのかなと、最近になって思います。

———会社を辞めて大学に移ったのは?

広島県立大学助手時代。フランスのキュリー博物館前で(博士課程の学生、光田さんと)

所属していた研究グループが解散することになり、転機かなと思いました。退職後は検査技師の道に入ろうかと思っていたのですが、広島県立大学で助手を探しているという話を耳にしたのです。実家育ちだったので環境を変えたいという気持ちもあり、「大学ならば、『残業時間』とか『休日勤務』などの縛りを考えずに、納得いくまで実験できるかなぁ」と思って応募しました。助手に採用されましたが、ゆくゆくは助教授になりたいとか、何になりたいとか、そういった気持ちはまったくないまま研究生活を始めて、3年目に抗体酵素に出会って、そのまま泥沼に・・・(笑)。

広島県立大学助手時代。フランスのキュリー博物館前で(博士課程の学生、光田さんと)