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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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ついに腫瘍血管内皮細胞の分離に成功!

———うまくいくかどうかわからないけれど、とにかくやってみろと・・・。

ポスドクの仲間たちからは「やめたほうがいい」と言われました。「Kyoko、ちょっと来なさい」とコーヒーショップに連れて行かれて、「あなたのプロジェクトは絶対うまくいかない。私の知っているだれだれさんも、だれだれさんも、みんなうまくいかなかった」「たとえ分離がうまくいったとしても、培養皿に降ろしたらきっと腫瘍血管内皮の特性なんてすぐに消えてなくなってしまう。やっても無駄だからやめておいたほうがいい」と口々に言うのです。夫は「かわいそうに」と思いつつ傍観していたように思いますが、ボスからはそれをやらないと雇わないと言われ、選択の余地はありませんでした。だって2人の子どもを預けるにはお金がかかります。当時、ボストンでの保育料が1カ月1200ドルぐらいかかり、2人なら2400ドル。家賃も高いこの地では夫と合わせて2人分の給料をもらわないと生活が困難な状況でしたから。

———必死に取り組まざるをえなかったわけですね。

ほとんど1日中培養室にこもり、いろいろな条件を試しました。ところが研究を始めて4カ月目ぐらいで、腫瘍血管内皮細胞の培養に成功したんですよ! すぐボスを呼びに行って、顕微鏡を見てもらったら、ボスの表情が一変して、ハイタッチしました。あまり感情を外に出さないタイプの人でしたが、そのときはまるで違っていました。
それからですね、ボスの態度が変わったのは。机ももらえるようになりました。それは当然といえば当然で、ボスは成果を出せる人間かどうかもわからないのに雇ってくれた。成果を出せなかったら、机どころか、ポスドクの給料をもらう資格なんてないわけですからね。

腫瘍組織からわずか1~2%しかないマウス腫瘍血管内皮細胞を分離し,当時誰も試みていなかった培養に成功

———短い期間に細胞分離・培養の技術をどうやって身につけたのですか?

何もかも初めての経験です。当時、腫瘍の血管内皮について研究している人はいなかったので、ほかの部分の組織、たとえば肺とか皮膚の血管について研究している人のところへ行って手順を教えてもらったり、論文をいろいろあたったりして、試行錯誤しながら自分なりに工夫を重ねました。だから、細胞が培養できたときは、すごくうれしかった。

———うまくいった秘訣は?

根気強く観察したことでしょうか。それと、いろいろなことを試しました。もちろん、まわりには優秀で、多様な経験を持っている人たちがたくさんいましたから、そういう人たちとのディスカッションも役に立ちました。何より、いかに集中してやるか、気持ちの問題も大きかったですね。
何しろ、家に戻れば双子の幼児二人の子育てが待ち構えているわけです。保育園に預けている間だけしか働けないので、その間に成果を出すためには、しっかりスケジュール管理して、限られた時間の中でいろいろなことを平行してやらなければいけない。あれを試してこれを試してと組み立てながら作業を進めました。
うちのラボは1つのプロジェクトを1人で担当するため、基本は私一人なのですが、夫もいろいろアドバイスしてくれました。もちろん夫は夫で別のプロジェクトを抱えていましたが、家に帰ってから二人でディスカッションをしました。もっとも夫のプロジェクトに私が口出しする余裕はまったくありませんでしたが・・・。

———それから人生が変わった?

腫瘍の血管内皮細胞の分離培養ができても、それは研究のスタートにすぎません。そこから先、正常細胞との違いを探求しなければなりませんが、どのように研究を進めるか、ボスにもこれといったビジョンはありませんでした。そもそも、腫瘍血管細胞と正常細胞とで違いがあるだなんて、当時考えられてもいなかったわけですから。細胞の形状を観察し、発現している遺伝子の違いをはじめ、さまざまなことを調べました。試行錯誤を重ね、ついに染色体の不安定性を発見したのです。

———腫瘍血管内皮細胞と正常細胞との違いを世界で初めて発見されたのですね!

がんの組織で何が異常で、悪者かというと、がん細胞だとみなさん思っている。では血管はどんな役割をしているか。がんは自分を養うために血管をつくらせるけれども、血管はあくまで受け身の存在で、がんの血管細胞そのものは正常細胞だと考えられていました。ところが私の発見は、腫瘍血管の内皮細胞には染色体の異常なものがあるということだったのです。

———それも留学中に発見されたのですか?

留学中の後半ですね。きっかけは、ちょっとしたことでした。
毎日培養していると、細胞の顔つきを見るわけです。変な細胞がまじってきたら除去しなければいけないし、ホントに農作業みたいな作業なんですが、何だか腫瘍血管の内皮細胞の核が、正常細胞と比べてやけに大きいなと思ったんです。ラボミーティングで写真を示してその話をすると、「正常と腫瘍細胞とで倍率を間違えて写真を撮ったんじゃないか?」などと言われました。初心者のころはいざ知らず、もう後半ですからそんなヘマはしていない。 そこで詳しく解析してみると、正常血管の内皮細胞の核と腫瘍の内皮細胞の核とでは大きさが全然違うことがわかりました。違うということはどういうことか。そこで歯学部で学んだ知識がよみがえってきました。細胞質に対する核の大きさが、正常細胞より大きいというのは、がんが染色体の不安定性を持っているがゆえの特徴なんですね。
とはいえ、もし間違ってがん細胞を培養していたとしたら大変だと、最初は青ざめました。何度も繰り返し調べましたががん細胞の混入ではない。この結果は、腫瘍血管内皮細胞と正常血管内皮細胞とが明らかに異なる決定的な証拠のひとつとなりました。
留学中はマウスでの発見でしたが、のちに日本に帰ってから、ヒトの腫瘍血管内皮細胞でも同様の異常があることを確かめています。

腫瘍血管内皮細胞の染色体異常

マウスの常染色体は19対で、正常な血管内皮細胞(左上)は2本ずつだが、腫瘍血管内皮細胞では、3本や4本の染色体がある。腫瘍血管内皮細胞は細胞の核も大きい(下図)
(Hida et al. Cancer Res 2004 )