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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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第53回 ノックアウトマウスをつくって、生殖細胞の形成や初期発生の謎に迫る 国立遺伝学研究所 系統生物研究センター 発生工学研究室 教授 相賀裕美子

私たちの体は一つの受精卵からできあがる。受精卵をつくりだす生殖細胞はどのようにしてつくられるのだろう? また発生過程で、どのような遺伝子がどのように働いて器官や構造を形づくっていくのだろう。国立遺伝学研究所の相賀裕美子先生は、さまざまな発生現象に注目して、その過程で働く遺伝子を変異させたマウスをつくることで、生殖細胞の形成や発生のメカニズムの謎に迫っている。

profile

相賀裕美子(さが・ゆみこ)
1984年筑波大学大学院生物科学研究科修了。理学博士。同年米国ニューヨーク州メモリアルスローンケタリングがん研究所に留学。89年理化学研究所 筑波研究センター 基礎科学特別研究員。92年萬有製薬筑波研究所 バイオメデイカル研究所 第4研究室研究員。95年同室長。97年国立医薬品食品衛生研究所 毒性部主任研究員・室長を経て2000年より現職。専門はマウス発生工学を用いた初期発生現象の解析。趣味はダイビング、テニス。

小さいころから生きものが育つプロセスを観察することが好き

———どんな子ども時代でしたか?

生まれたのは京都ですが、父の仕事の関係で転々としていて、子どものころ一番長くいたのは下関ですね。そこで幼稚園から中学1年まで過ごしました。海が近かったのでよく出かけ、引き潮になるとウニや貝などを採ったり、近くの野山を駆けめぐったりしていました。

———そのころから生きものに興味を?

生きものには興味がありましたね。アリを捕ってきては広口びんに入れてアリの巣ができる様子を観察したり、オタマジャクシや蝶の幼虫を飼ってみたり。毎月届く『科学』や『学習』の付録がとても楽しみで、小さなフラスコや試験管を集めて、それを使った実験にも熱中しました。酢を入れると花の絞り汁の色が変わる実験とか…。顕微鏡はさすがについてこなかったので、親にねだって買ってもらい、ミジンコを観察したりしていました。虫そのものにすごく興味があるというより、生きものが育っていくプロセスを観察するとか、実験が好きでした。

———下関からどちらに?

中1で東京に移ったんです。言葉が少々違うということもあって、当初はなじめなかったのですが、バレーボール部に入って練習に打ち込むうちに楽しくなりました。そのころはもう生きものに対する熱はちょっと冷めていたと思います。

バレーボール部のみんなと。中学3年ごろ(後列左から3番目)

———中学の理科の授業はどうでしたか?

理科の時間にフナとかカエルの解剖があるでしょ? あれ、嫌いだったんです。動物愛護というわけでもないけれど、人のエゴで動物を殺すのはよくないって思って、ボイコットしました。友だちにいわせると、そのころの私って、すごく気が強く自信過剰で、頑固な部分があったようで、テストで100点が取れなかったとき、先生の解答の間違いだと答案を丸めて外に棄てたこともあったらしい(笑)。まるで覚えていないのですが。

———高校に進んでからは?

高校の生物の先生のおかげで、生物が好きになりました。まだ教科書に詳しく書かれていなかったDNAの概念なども教えてもらい、新しい世界が開かれていく感じでとてもワクワクしましたね。それで、ブルーバックスの生物関係の本をいろいろ読み漁っていました。

———他の科目はいかがでしたか?

もともと、答えがないものは嫌い。だから数学が好きで、国語は嫌いでした。文章を読んで「感想を書け」といわれたって、評価は人それぞれじゃないですか。「筆者は何を述べたかったか」なんて、書いた本人に聞かなきゃわからない。それに対して数学はきちっとした答えがあって明快です。でも生物は答えがない。それなのになぜひかれたのかというと…。昔から「なぜこうなるんだろう?」とメカニズムやプロセスを考えるのが好きで、それまで知らなかった世界が、新しい知識によってどんどん広がっていく感覚に魅せられたのではないかと思います。

———それで大学で生物学を専攻しようと考えたのですね。

世のため人のため、医者になろうかと思ったこともあったんです。当時、「不治の病」といわれていたがんを治したいと…。でも、血を見るのがダメだったので医学部には行きたくない。生物なら人の病気に関連することが学べるのではないかと思ったことも生物学を選んだ理由の一つです。
といっても生物学を専攻できる大学は当時それほど多くなかったので、開学して間もない筑波大学を選びました。私は生物学類の1期生です。

———そのころから将来は研究者にと考えていましたか?

小さいころから研究者への漠然とした憧れはありましたが、研究者になれるとは思ってはいませんでした。成績はそこそこ良かったけれど、別にそれほど鋭かったわけではないし、だいたい自分のことはわかりますから。でも、実験などは好きだったので、大学のころは、研究室で実験を専門に担当するテクニシャンみたいな形で生きていくのもいいなと思っていました。