この顕微鏡を開発したのが自治医科大学の西村智教授。小学生のころから秋葉原の電気街に通い、モノづくりに熱中したという西村先生は、従来の手法では不可能だった生体内のミクロの動きを可視化することで、さまざまな病態の解析や新規治療法の開発に取り組んでいる。
profile
西村智(にしむら・さとし)
1974年東京生まれ。99年東京大学医学部医学科卒業。同年同大学附属病院内科研修医。2001年同病院非常勤医員。07年東京大学大学院博士課程修了。医学博士。08年東京大学循環器内科特任助教・JSTさきがけ研究員兼任。同年東京大学医療ナノテク人材育成ユニット特任助教。09年同大学システム疾患生命科学による先端医療技術開発拠点(TSBMI)特任助教。11年TSBMI特任准教授。13年より現職。
研究室はまるでアキバの電気街の一角だった
JR宇都宮線・自治医大駅から徒歩10分ほどのところにある自治医科大学のキャンパス。広大な敷地の中のひときわ高い建物が医学部教育・研究棟だ。その一角にある分子病態治療研究センター・分子病態研究室のドアを開けると、ほかの医学部の研究室とはまるで違う世界が広がっていた。
部屋のそこかしこに積まれた工具や部品の数々。まるで町工場か、秋葉原の電気街の一角に紛れ込んだみたいだ。教授室の中はさらにすごい。大量の精密部品に驚いてしまう。
部屋の奥から現れたのが、この研究室を主宰する西村智教授。先生の出で立ちもラフなシャツにジーンズ姿。医学部教授のイメージとはほど遠い。
「そういえば、白衣ってずっと着てないですね。スーツの着方も忘れてしまいました。金属部品の加工をしたり、、機械の下にもぐり込んだり、ジーンズが一番いいんです」
何とも異色の医学部教授だが、この先生こそ、ミクロの世界をとらえる顕微鏡に革命を起こした人なのだ。
———ものづくりへの興味は小さいころからですか?
両親が2人とも建築士で、母方の祖父は工業デザインをやっていた人で、家には普通にロクロがあってベランダには窯があり、電動工具とか回転切断機なども揃っている、そんな環境だったんですよ。だから土日は家族でキャンプに行くとか遊園地に行くとかではなくて、だいたい家でガーッと機械の音を立てて何かをつくっていて、出かけていくところといえばホームセンターとかアキバ(秋葉原の電気街)でした。 最初にアキバに行ったのは小学校の3、4年のころ。親に連れられてではなく一人で行きました。パソコンを自分でつくるいとこがいて、その子にちょっと憧れたところもありましたけど、基本的には自分で雑誌などを読んで勉強して、小さなパソコンをつくったりしていて、基板を焼いたり配線なんかも小学校のころに覚えました。両親は建築設計やデザインのほうでエレクトロニクスは全然やらないから、自分で習得したものです。
———小学生でパソコンを自作するなんて、すごいですね。
小学校のときはちょうどパソコンの黎明期。Z80という8ビットのCPUとかが登場したころで、ようやく一般家庭でもパソコンが手に入るようになった時代でした。Windowsのちょっと前で、PC‐98などのハイスペックなパソコンも買えるようにはなったけれど、まだゲーム機だかファミコンだかよくわからないような時代で、最初に親から与えられたのはMSXという8ビットのマイコンでした。もっとスピードを速くできないかと機械を開けてオーバードライブしたりして遊んでいました。
まだインターネットが登場する前で雑誌がメインの情報ソースでしたが、技術が好きでいろんなところに出かけていきました。休みの日に1人で浄水場に行ったりすると、子どもなのでみんな親切にしてくれる。おじさんが熱心に技術の説明をしてくれるという。水のでき方を知って喜ぶ小学生はあまり多くないかもしれないですが、多くの情報が得られて今の糧になっています。
———中学生のころは?
だんだんパソコンのコストが下がっていって、プログラムも自分でできるようになりました。ドラクエのゲームソフトなどは高いので、マネして同じようなものを自分でプログラムして遊んでいました。ハード、特に部品のコストが下がり、子どもが機械をいじるのが可能になってきたころでもありましたね。加工に使う素材がよくなって、接着で使う二液性の樹脂とかが小さいロットでさえも普通に買えるようになりました。真空成形ですら、子どもでもできるようになるとか、たくさんの技術が使えるようになっていた。だから中学時代はものづくりとか、パソコンいじりに熱中して、けっこう徹夜もしました。