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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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第55回 女性研究者受難の時代を生き抜き「低酸素がん細胞」の攻略に挑む 東京工業大学 生命理工学院 ライフエンジニアリングコース 教授 近藤科江

がんは低酸素などの微小環境下で巧みに生き抜き、より悪性度を増して浸潤・転移していく。そんながんの特性に着目し、先進的な生体光イメージング技術を駆使して、難治がんの早期診断と治療法の開発に取り組んでいるのが近藤科江先生。
「女性だから」との理由で門戸が閉ざされることが当たり前だった時代に研究者をめざした近藤先生は、さまざまな困難を乗り越えて研究を続け、がん治療の最前線で活躍している。

profile

近藤科江(こんどう・しなえ)
1981年岐阜薬科大学薬学部卒業。84年米国オルバニー・メディカル・カレッジ(微生物学・免疫学専攻)修士課程修了。89年大阪大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。90年日本学術振興会特別研究員。93年新技術事業団岡山細胞変換プロジェクト研究員。99年京都大学大学院医学研究科助手。2004年同大学医学研究科特任准教授。08年同特定教授。10年東京工業大学大学院生命理工学研究科(生体分子機能工学専攻)教授。現在に至る。08年第13回日本女性科学者の会奨励賞。

小さいとき薬の世話になったから、「将来は薬剤師に」

———どこで子ども時代を過ごしたのですか?

小学校の4年生まで鹿児島にいて、その後千葉の館山へ引っ越しました。鹿児島も館山も、まわりは自然がいっぱい。家に帰ったらランドセルを放り投げて真っ暗になるまで遊び回っていました。虫に触ったり、葉っぱに触ったり・・・。何をして遊んだか覚えきれないぐらい。

———活発だったんですね。

昼間は元気なんです。でも小児ゼンソクにかかっていて、人から風邪をもらって夜になるとゼイゼイと呼吸がきつくなったりということがしばしばありましたね。
お医者さんから「これは甘やかし病だから毎日走るようにしなさい」と言われて、毎朝、家の近くの標高100mほどの山まで往復4kmほど走ったあとに学校へ行く、という生活を続けていたら、やがてゼンソクも治ってすっかり元気になりました。

———将来の夢は?

からだが弱くてゼンソクの薬を飲んでいたこともあって、父からは「手に職をつけたほうがいいから、薬剤師になったらどうだ」と言われて、高校生のころは「薬剤師をめざそうかな」と漠然と考えていましたね。

———とすると、当然理系だった?

日本だけなんですけどね、理系と文系を分けるのは。
高校2年ぐらいになったら理系と文系、どっちへ行きますかと聞かれるでしょ? 文系に行くには歴史をとらなくてはいけないと言われて、それで文系はダメだと思いました。人物の名前が覚えられないんですよ。日本史は好きだったけれど世界史がダメで、国が変わると、同じ人でもカールとかチャールズとかシャルルなどと名前が変わってしまうし、カタカナがいっぱい出てくるのでこれはもう無理だと。世界史をとるんだったら文系には行かないぞと、そんな簡単な理由で理系を選びましたね。
でも物理は好きでした。

———大学選びはどのように?

親からは「大学に行ってもいいが、自分で行け」と言われました。経済的なことを考えたら国公立しかないけれど、塾に行ってなかったので受験のノウハウを知らない。自分の好きな教科しか勉強してなかったということもあって、公立の岐阜薬科大学を選びました。

———親からの援助がないとなると、大学生活は大変だったのでは?

苦学生でしたね。奨学金とバイトで何とかしのぎました。週に3回は夜に家庭教師をして、週末は塾の講師。遊んでいるヒマなんてありませんでした。