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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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大学内の共同保育所に子どもを預けながらの研究生活

———3年間アメリカで学び、修士号を取得して日本に戻ってこられたわけですね。

留学していた研究室のボスのつてもあって、大阪大学の博士後期課程に進みました。そこで巡り合ったのが、腫瘍ウイルス学です。あのころは、ウイルスによってがん化するという説が脚光を浴びていて、私はレトロウイルスを使ってがん化させた細胞の変異株を使って細胞をがん化させるメカニズムを探る研究に取り組みました。温度が38℃ぐらいだとがん化しないけれど、35℃にするとがん化する突然変異の原因遺伝子を突き止めることができないか探っていたんですね。でもゲノムDNAからの解析は効率がよくないので、どう研究を進めようか考えあぐねていました。
そんなとき、アメリカのNIH(国立衛生研究所)にいた岡山博人先生が帰って来られて、たまたま私がいた研究室の近くにご自分の研究室をつくられたのです。岡山先生は相補的(complimentary)DNAと呼ばれるcDNAのライブラリーを世界で初めてつくり出したことで知られています。このcDNAライブラリーを使えば突然変異細胞の中でどの遺伝子が変異しているかが見つけられると思い、岡山先生に教えを乞おうとぶち当たってみる覚悟で行ったところ、快く受け入れてくださいました。
学位を取ったあとは、先生が立ち上げた新技術事業団「岡山細胞変換プロジェクト」に研究員として加えていただき、がんのシグナル伝達経路の研究を始め、そこからがんについて本格的に研究するようになったのです。

———研究者としてのスタートラインに立ったわけですね。

実はそのときすでに結婚していて、1人目の子どもができて子育ての真っ最中でもあったんですよ。

岡山研のメンバーでのソフトボール大会にて(中央が岡山先生、後列左から3人目、立っているのが妊娠中の近藤先生)

———ご結婚はいつごろ?

大学院の博士課程を修了したころですね。相手は同じ部屋で研究していた後輩です。私も主人も学生だったし、定職についているわけではないので、外の保育園に預けた方が保育費は助かりますが、子どもに何かあったらすぐに駆け付けられるし、大学の中で子どもに授乳しながら育てたいと思っていたので、阪大にあった共同保育所に預けることにしました。

———共同保育所って、保護者が自分たちでつくって運営する施設ですね。

代々の先輩方が苦労してつくってくださった保育所で、近所の主婦に頼んで子どもを見てもらっていたんですけど、工学部にいた内藤林(しげる)先生が当時運営委員長で、共同保育所の現状を見て、「これは保育じゃない」とおっしゃったんです。先生は3人のお子さんが小さかったころは保育園の送り迎えもしていたという元祖イクメンで、奥さんは近くの保育園の園長をされていました。

———「保育じゃない」とは厳しい指摘ですね。どんな保育をしていたんですか?

テレビが1台置いてある部屋に子どもを集めて、父母が来るまでテレビを見させているだけで、もちろん散歩も食事もさせてくれるけど適切な刺激を与えているわけではなく、「これを保育とはいわない」と内藤先生から厳しく指摘されて、そこから本当の保育所をつくろうという改革が始まったんです。
保育士の資格のある方が一人来てくれて、早速に保育改革に取り組んでくれました。新しく来た保育士の方は、「保育士はお父さんお母さんたちが保育するのを助ける側なんだ。あなたがたが主体になって保育をしなければわれわれは何もできません」と言うのです。それまでは、ただ子どもを預けておけば今までの生活と変わらないように研究できるみたいに甘く考えていたんですが、育てるのはお父さんお母さんだと言われて、考え方がガラッと変わりましたね。育てるのは自分なんだから、しっかりと自覚を持たなければいけないと思うようになりました。
しかし、保育改革によって、それまでの保育士さんは退職してしまい、そのため利用者も減り、保育所存続の危機にさらされました。2人目がお腹にいる身重で、研究の合間に近くの団地に「保母さん募集」のビラを撒いて歩きました。なんと保母の資格を持った若い保母さんが3人も来てくださり、保育体制は万全になりました。最低3人に落ち込んだ利用者もV字回復して、保育園存続の危機は免れましたが、経営難は相変わらずで、チョコレートやコーヒーなど販売やバザーなど何でもして、何とか運営資金を繋ぎました。今は、定員80人の立派な阪大保育園として、大学が運営をしています。

V字回復した後のタケノコ保育所(右端が内藤先生、膝に載っているのは近藤先生の娘さん、左から3人目が近藤先生とご子息)

———研究と子育てとの両立は大変だったのでは?

夕方6時に迎えに行かなければいけないので、自分が行けないときは主人に行ってもらったりもしましたけど、迎えに行ってそのまま子どもを連れて研究室に戻って、そこに寝かせて実験したりもしました。子どもが風邪をひいたりしたときは、昼間は家にいて子どもをみて、夜になって主人と交替して研究室に行って実験をするとか、そのころはとにかく忙しくて睡眠時間が足りないほどでしたが、結局、2人の子どもを保育所に預けながら研究を続けました。
だけどすごく不思議なんですけど、子育てをしていると、研究をずーっとやっているときよりも頭の切り換えができる感じがするんです。集中することはとても大切ですが、一方で気分転換も必要。ちょっと一息入れると、また違った見方ができるようになります。そういう意味では、子育てはいい気分転換になって、研究にもそれほど大きな支障があったようには思いませんね。物理的には大変でしたが・・・。

———当時、女性研究者に対するサポート体制は?

われわれのころって、今と違って何のサポートもなかったですね。出産前日まで研究し、教授に呼び出されて産後6週で復帰しました。今でこそ女性研究者に対してベビーシッターの派遣をしてくれるとか、大変だったら補助の人を数時間つけてくれるとか、さまざまな支援がありますが、そんなのまったくなかったですからね。それどころか、「女性の研究者はいらない」という時代ですから。「何でここにいるの?」とあからさまに言われことがあるし、「どうせ趣味でやってるんでしょ」とも言われましたね。
先輩や同僚から言われるのもつらいけれど、まだ保育所への理解が十分でない時代でしたので、主人の両親の理解を得るのに苦労しました。当時は研究歴にブランクがあると、よほどのことがないと復帰することはできなかったのですが、「子育てを終えてから復帰すればよい」と研究継続には強く反対されました。

———岡山先生のプロジェクトから、今度は京大に移られましたが?

岡山先生が京都に別の時限付きラボをつくられて、その直後に先生が東大に移ることになったんです。ほとんどの人は東大に行きましたが、私は家庭もあるし、東大ではなく、京都のラボに行かせてもらいました。時限付きラボが終了する際に、京大の研究室をあちこち回っていたら「来てもいいよ」と言ってくださるところがあって研究を始めたんですけど、やはり女性の研究は厳しくて、最初の2年ぐらいはテクニシャンをやっていましたね。それでも自分の研究は続け、論文を書いていましたが・・・。
そのころもまだ「わざわざ女性が研究する必要はないでしょう」という状況は変わらなかったですね。今になって「女性の研究者がいない」とみなさんおっしゃるんですけど、当たり前でしょうって私は思いますよ。育てることをしてないんですから。私の周りにいた優秀な女性研究者は、ドンドン辞めていきました。精神的にも肉体的にもタフじゃないと生き残れないので、私みたいなちょっと強情な人間しか残っていない(笑)。
私自身、とてもつらい思いをした時期があったし、このまま研究を続けていっていいのかと深刻に考えて、鴨川の川べりで何時間もたたずんで川面を見つめ続けたこともありました。

———でもやっぱり研究を続けたんですね。

自分でやりたいことがあったし、きっとできるという変な自信もありましたね。

———その自信はどこから?

どこから出るんでしょうね。自分でいろいろ勉強をしたという自負もあったし、今までかなりつらい思いをしてきているので、ここで諦めるなんてそんなバカなことはない、続ける意義があるはずだと、自分で自分に言い聞かせたこともありましたね。それに、自分で仮説を立てて、それが立証されるのを自分の目で確かめたときの喜びは何物にも代えがたいものがありましたから。