公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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学生時代、アメリカで研究体験

———大学時代の思い出を教えてください。

5年生の夏に「萩原一記念フェローシップ」のサポートをいただき、アメリカ・カリフォルニアのDNAX研究所で2カ月間、サマースチューデントとして研究を体験しました。 このフェローシップは、1987年にDNAX研究所に留学中に急逝された東大医学部の先輩、萩原一さんを記念して、後輩の学生にDNAX研究所で研修を行う機会を与えようと、ご両親と友人たちが設立されました。
ぼくが選ばれたときには、「とにかく外国に出てみたい」「外国の第一線の研究室が見てみたい」という想いを、それまでの4年間の大学生活の感想に添えて書いたことを覚えています。このとき選考いただいた3人の先生の1人が、当時DNAX研究所の分子生物学部長だった新井賢一さんでした。

———DNAX研究所の体験はどのようなものでしたか?

DNAX研究所は製薬会社のシェリング・プラウ(のちにメルク社に合併)がつくった研究所で、分子生物学的手法を使って幅広い研究を行っていました。ぼくは、マウスの初期胚の遺伝子発現を、開発されたばかりのPCR*で解析する研究を手伝いました。研究はもちろん楽しかったけれど、研究所や研究室の明るくてオープンな雰囲気が眩しくて、印象に残っています。ぼくがいたラボは日本人がまったくいなくて英語漬けの毎日でしたけど、研究を終えたあとはソフトボールなどに励んだりして、楽しかったですね。
*PCR (Polymerase Chain Reaction)
自分の調べたい特定の塩基配列を持つDNA断片を、酵素反応を利用して増幅させる方法。PCR法の開発によって、分子生物学が大きく進展した。

DNAX研究所でサマースチューデント(右端)。サングラスをかけているのが新井賢一さん

———その後、臨床ではなく大学院に進んだのですね。

卒業するときは、臨床と研究の間で迷いはしましたが、結局選んだのは、人類がいまだ知らない生物のしくみを自身の興味に従って明らかにする生物学研究の道でした。

6年生のときに新井さんが帰国して、東大医科学研究所分子生物学部の教授に就任されたんです。そこで、大学院生として新井さんの研究室に参加させていただくことにしました。
新井さんは今春(2018年4月)、まだお若いのに亡くなりました。新井さんに教わった科学研究の楽しさや明るくてオープンな雰囲気の大切さは、今でもぼくのラボのモットーとなっています。ご冥福をお祈りします。

———大学院では、どのような研究に携わったのですか?

in vitroつまり培養皿でES細胞を分化させる実験です。特に、新井さんは血液の研究者でしたから、ES細胞を使って血液がどのようにして生まれるかを調べました。当時はES細胞を使ってノックアウトマウスが初めて作られてから間もない時期でした(注:最初のノックアウトマウスはマリオ・カペッキ、マーティン・エヴァンズ、オリヴァー・スミティーズによって1989年に作られた)。

でも、当時のぼくにはES細胞の分化はすごく複雑で難しく、とても手に負えないと諦めました。逆に、非常にシンプルな骨格筋の培養細胞を使って、細胞分化がどう制御されているかを研究し、この仕事で学位を取りました。このときには、動物の個体発生や細胞分化の研究をしている鍋島陽一さん(当時・国立精神・神経センター神経研究所遺伝子工学研究部長)にお世話になりました。大学院修了後は鍋島さんの研究室でさらに2年間、ポスドクとして骨格筋の研究を続けました。