公益財団法人テルモ生命科学芸術財団

中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

第56回 生命を次世代につなぐナゾの解明に挑む-精子を作り続ける幹細胞の正体とは?- 基礎生物学研究所 生殖細胞研究部門 教授 吉田松生

ヒト男性の精巣は1日に1億にもおよぶ精子を60年以上にわたって作り続ける。このようにたくさんの精子を長期間作り続けるという生命にとって極めて重要な営みは、どんな細胞が支えているのだろうか?
精子形成の根幹を握っているのは「精子幹細胞」だが、その実体はいまだにナゾに包まれているという。このナゾに迫ろうと、生命の神秘への挑戦を続けているのが吉田松生先生だ。

profile

吉田松生(よしだ・しょうせい)
1967年愛知県生まれ。91年東京大学医学部医学科卒業。95年同大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士。95年国立精神・神経センター神経研究所遺伝子工学研究部にてポスドク。97年大阪大学細胞生体工学センター助手。98年京都大学大学院医学研究科助手(のち助教)。2008年より現職。総合研究大学院大学生命科学研究科教授 併任。
HP:http://www.nibb.ac.jp/germcell/index.html

基礎医学研究者の父の姿に「研究って楽しそうだな」

———子どものころは昆虫少年だったとか。

昆虫少年でしたね。高校生までで終わってしまっているけれど。父が昆虫が好きで、その影響です。小学校の2年生ぐらいのときにいい補虫網を買ってもらったのがきっかけです。家が名古屋市の郊外にあり、当時は家の近くにもけっこう自然が残っていました。日曜日になると父に連れられて昆虫採集に行ったり、同級生と出かけたりしました。

———どんな昆虫を集めたんですか?

チョウですね。チョウは誰が見てもきれいだし、わかりやすい。父は子どものころからハチをやっていたのですが、ハチははるかに種類も多くてマニアックさではかないません。

2歳。父がニューヨーク(アメリカ)のスローンケッタリング研究所でポスドクをしていたころ。お気に入りの3輪車に乗って

捕虫網を手に。たしか伊吹山にて

———昆虫採集の何が楽しかったんでしょう?

図鑑を読んでいると憧れのチョウというのができてきて、「このチョウを採りたい」と思うわけです。そのうちにいつどこに行けばそのチョウがいるか、チョウの幼虫は例えばアゲハチョウならミカンの葉というふうに食べる植物が決まっているので、今度はそこへ行って幼虫をつかまえて羽化させようとか、だんだんエスカレートしていくんです。中でもきれいだなと思ったのはミドリシジミの仲間。ぼくだけでなくチョウ屋の憧れでもあるんですよ。
もちろん、チョウばかり追っかけていたわけではなくて、普通の遊びもけっこうしました。みんなで野球をしたり。

教授室には、かつて採ったチョウの標本がたくさんある

———そのころは将来、何になりたいと思っていましたか?

研究をやりたいという思いはありましたね。父は医学部出身の基礎医学研究者*なんです。DNA複製について研究していて、家でも研究の話をちょくちょくしてくれました。一生懸命やっている様子を教えてくれるんです。それを聞いて、研究者って何だか楽しそうだなと思いました。あと、父は朝起きるのが遅いんですよね。ぼくが学校に行くときはだいたい寝ている。それでメシが食えるんだったらいいよな、って思ってました(笑)。家に帰るのも遅かったから、平日は起きているところを見ていなかったかもしれませんね。
*吉田松年(よしだ しょうねん)名古屋大学医学部名誉教授

———大学への進学では、理系か文系か迷うことはありませんでしたか?

何も迷うことなく理系。その中でも生物ですね。中学生ぐらいから決めていました。

———医学部を選んだのは?

そこがいまだによくわからないんですよ。研究者になりたくて、しかも生物なら、普通に考えると理学部でしょ? なのにどうして医学部に行ったのか。わからないというのも変なんだけど、本当にそうなんです。 父も医学部出身ですが、がんの患者さんを治したいという立派な動機があるんです。がんというのはがん細胞がどんどん増えていくことなので、がん細胞を増えないようにすればがんは治るに違いない。細胞が増えるときにはDNAが増えることが必要だから、DNAがどうして増えるかを調べて増殖を止める方法を見つけようと、DNAの複製についての研究を始めて、貫いた。すごく尊敬しますね。ぼくが高校生のころ、父は「人間の生物学をやるのが医学部だ」と言うんです。それを聞いて、「そんなものかな」と思ったのが医学部に決めた理由だったと思います。

———医学部に入っても、研究者への夢は持ち続けていたんですか?

医学部に入ったときも、将来は絶対、研究をやろうと思っていましたけど、医学研究をやろうというのとはちょっと違っていたんです。「医者として目の前の患者さんを救うのも大事だけれど、医学研究者になればもっとたくさんの人を救える」と医学研究の意義を語る人も多いし、大学で言われたりもしました。しかし、ぼく自身はそういう思いにはならなかったというのが偽らざる気持ちです。研究をやるんだったら自分の興味があること、自分がおもしろいと思ったことをやりたいと思っていました。
もっとも、大学に入った後は白紙に戻して、目の前の患者さんを治す臨床医になるか、自分のやりたいことを探究する研究者になるか、卒業までにどちらかに決めようと考えていました。

———実際、大学に入ってからはどうでしたか?

中学高校と弓道部に入っていて、大学でも続けました。弓術部(東京大学ではそう呼びます)は全学の部だったので、ほかの学部の学生たちがいっぱいいて、文学部とか経済学部などの学生と仲良くなっていろいろな話をしました。おかげで最初の4年間は弓道ばかりやっていて、練習の合間に授業にちょっと出てまた練習といった感じ。
医学部は6年間ですが弓術部は全学の部だったので、そんな生活も4年でおしまい。5年のときはそれまでの遅れを取り戻そうと、臨床の授業をサボって1年の基礎医学の授業に出たりもしましたね。

大学の弓術部。学園祭で

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