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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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東北大学医学部に進学

———医学部に進むことにしたのはなぜですか?

母方の祖父が宮大工の棟梁だったこともあって、中学までは建築士になろうかと思っていました。でも、父は「成績がいいんだから医者になれ」って言うんです。父は先天性の高度の弱視で苦労していました。地方は当時も今も、医者が少ない地域です。息子が医者になれば自分も助かるし、地元の人にとってもいいことだと思ったんでしょうね。
それでなんとなく医学部かなと思っていた高校2年のころ、新聞で東北大学脳神経外科の初代教授、鈴木二郎先生に関する記事を読んだのです。脳卒中や交通外傷の患者さんの手術で、命は助かったけれど植物状態になってしまった場合にどうすべきか、という連載でした。切り抜いて、日記に貼っていました。こんなすごい先生がいるなら東北大学医学部を目指そうと思ったものです。この鈴木先生が私の最初の恩師です。
実は数年前、大学入試の面接官を務めた時、ある受験生に東北大学の志望理由を尋ねたら「てんかん学の中里先生がいるから」と答えたんですね。新聞でてんかん啓発活動に関する私の記事を読んだらしいのです。もっともその受験生はとても緊張していて、目の前にいる試験官がその「中里先生」だとは気づいていない様子でしたね(笑)。

———東北大学医学部に行って、ではどの分野の医師になるかというのは?

精神科に行こうかなと思っていた時代もありました。中学高校時代から脳と心について強い興味を持っていたからです。でも学生実習で脳神経外科に配属された時、先ほどお話した鈴木二郎先生や医局員のはつらつとした姿に一目惚れしました。鈴木二郎先生は海軍兵学校の卒業で、何事も海軍方式なのです。怖くて厳しい先生でしたが、一方で茶目っ気もあり、心のやさしい先生です。とても尊敬していました。鈴木二郎先生ご夫妻には、その後、私たち夫婦の結婚式の仲人もお願いすることになるのです。

1982年12月東日本医学生総合体育大会で、スピードスケート団体優勝の記念撮影(向って左から2人目)

1984年1月スケート部卒業記念。東日本医学生総合体育大会スピードスケート部門の団体3連覇でもらった大量のメダルを、ユニフォームに入れているのが中里先生(向って右端)

———そこで脳神経外科に進んだ。

ところが入局してはみたものの、私は脳神経外科にはそれほど向いていないことがわかりました。高校時代の卓球部での経験と同じです。
先輩の中には手術の名手と呼ばれる人たちがいて、どんなに頑張っても到底かなわないと思わせるすごさです。緊急手術の場合には、自分がやるしかないのですから手術をするのは平気でしたが、緊急性はないけれども難しい手術の場合には、「自分で執刀するよりもっと上手な先生にお願いする方が、人間として正しい判断なのではないか」と思ってしまうタイプなのです。さらに、患者さんによっては「手術をしても助けられるが、手術をせずとも助かるんじゃないか」とついつい思ってしまう。外科医は手術を何件経験できたかの世界ですから、このような消極派ではダメなんです。

———研究面ではどうでしたか。

高校時代から物理や数学は大好きだけれど、生物や化学は嫌いでした。医学部に入っても好き嫌いは変えられません。動物実験はしたくないし、試験管も振りたくない。脳の研究をやりたいけれども、同時に好きな物理を生かせるような仕事がないだろうかと、ずっと思っていました。そうしたら脳波があった。さらに、超伝導のセンサーを使って、微弱な脳の磁場である脳磁図を計測する検査法もある。「これこそ物理だ!」と飛びつきました。こうして、新米医師のころから、てんかんの治療と脳波の勉強に取り組む日々が始まったのです。

———てんかんというのは発作を繰り返す脳の病気ですね。

ヒトの大脳には何百億もの神経細胞があり、互いにブレーキをかけあって興奮しすぎないように調整しあっています。ところが、何かの原因でブレーキが外れると多数の神経細胞が一斉に興奮してしまい、こうして起こるのが「てんかん発作」です。てんかんの発作は、異常興奮が大脳のどの部分に起こるかによってあらわれ方が実に多様です。
てんかんの診断や治療にあたっては、発作の原因となる脳の仕組みがどうなっているかを探ることが非常に重要です。そのためにも脳の神経細胞から生ずるわずかな電流を記録した脳波や脳磁図は、大切な検査なのです。

医学部の卒業アルバムから。ボート部の同級生たちと(中央でしゃがんでいるのがコックスだった中里先生)