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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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第57回 「発作ゼロ、悩みゼロ、不安ゼロ」を目標に物理学から心理学まで駆使して、てんかん学を究める 東北大学大学院医学系研究科 てんかん学分野 東北大学病院 てんかん科 教授 中里信和

2010年3月、日本で初めて大学病院に「てんかん科」を設立。翌年には研究講座名を「てんかん学分野」と改名。「1時間外来」や「長時間ビデオ脳波モニタリング検査」の導入など患者に寄り添った診療を進めているのが中里信和先生。超伝導センサーを使った脳磁図計測をてんかんの診断や脳研究に応用する国際的権威でもある。また、てんかんへの誤解や偏見を少しでも取り除こうと、ツイッターなどを活用して社会的発言も積極的に行っている。そんな中里先生は、どんな中学・高校時代を過ごしたのだろう? てんかん学を掲げるまでの道のりは?

profile

中里信和(なかさと・のぶかず)
1959年岩手県生まれ。84年東北大学医学部医学科卒業。88年同大学脳神経外科研修医等を経て助手。89年~91年米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部研究員。92年広南病院(宮城県仙台市)脳神経外科医長。96年東北大学医学部助手。2000年広南病院臨床研究部長。08年同病院副院長。10年より東北大学大学院医学系研究科教授。著書・監修書に『「てんかん」のことがよくわかる本』(講談社)『ねころんで読めるてんかん診療』(メディカ出版)など。趣味は、焚き火、囲碁、ノルディック・ウォーキング。

中1のときに起こした“集団カンニング事件”

———お生まれは?

岩手県の陸前高田市です。父は親戚が網元(社長)の水産会社で番頭(取締役専務)をしていました。その会社では定置網のほかマグロ船も所有しており、盆暮れにはマグロ船の船員さんたちが家に挨拶に来ては酒盛りをしていた、そんな記憶があります。
陸前高田は東日本大震災で甚大な被害を受けたところです。実家は幸いなことにギリギリで津波を免れたのですが、すぐ近所の家々が何軒か流されてしまい、胸がつぶれる思いがしました。
最近、実家の整理をした際に、畑の隅にある墓石に「天明」や「天保」の文字があることに気づきました。先祖は200年以上も前の江戸時代中期か後期にこの地に移ってきて、少し高いところに居を構えたようですね。

———どんな子ども時代を過ごしましたか?

かつての典型的な田舎の子どもといったところでしょうか。まわりはブナやミズナラ、ツバキ、スギ、そして北限といわれる竹林が混在し、キジはいるし、ウサギがはね回っている里山です。そこが遊び場でした。近所に歳上のお姉ちゃんが二人いて、たくさんのことを教えてもらいました。うち一人は畑作りの名人で、麦踏みや堆肥作りなど農家の仕事をひととおり教わりました。そんな仕事も子どもにとっては、大いなる遊びでもあったのです。
そうそう、同級生に小学校6年からアマチュア無線をやっていた子がいました。「これなら海外とつながる。英語が話せるようになるぞ」と言うんです。刺激を受けて私も中学1年から無線を始めました。昨日はアラスカ、今日はハワイ沖の漁船とつながったなどと、カタコトの英語で熱中したものです。インターネットがなかった当時、田舎の中学生が世界に触れた時間でした。アマチュア無線を教えてくれた友人は村山清君といって、その後サンフランシスコ大学に進み、ワシントンの日本大使館や外資系の銀行勤めをしたあと国連とで難民支援などにも携わった男です。東日本大震災後は、三陸沿岸での復興支援の活動も展開し、最近、『陸前高田から世界を変えていく 元国連職員が伝える3・11』という本も出版しています。

———遊び以外で好きだったのは?

本が大好きでした。父は遠洋マグロ漁船の入港があると、仕込みのために神奈川県の三浦三崎港や、静岡県の焼津港への出張することが多かったのですが、帰りに東京に寄って、必ず本を1冊買ってきてくれました。それが小学校に入る前から、中学卒業まで続きました。
父は自分で本を選ぶことはせず、必ず書店員に私の年齢に合った本を選んでもらっていたそうです。尋常高等小学校しか出ていない父ですが、プロに頼むべきことはちゃんと心得ていたのですね。おみやげの古今東西のありとあらゆる名作を、父が帰ったその日に一気に読みふけったものです。

———中学時代の思い出を教えてください。

中学1年のときに“集団カンニング事件”を起こしましてね。

———え? いったいどんな事件ですか?

当時、中学生を対象にした岩手県下一斉の業者テストがあったんです。学校の正式な試験ではありませんし、進学よりも部活に熱心な田舎の中学校ですから、先生も手抜きだったのだと思います。数学のテストの最中に先生が職員室に休憩に戻ってしまったのです。「お前たち、試験ちゃんとやってろよ」と言い残して。
問題を見ると、まだ授業で習ってない範囲でした。私はそれまで、試験というのは授業で習った問題を解くことだと思っていたので、カンニングという悪いことだとは思わずに、ちゃんと勉強しようという純粋な気持から「クラスのみんなで問題を解こう」と声をかけたのです。その結果、数学のテストで岩手県のトップ100の中にクラスの大半が入ってしまいました(笑)。あとから大問題になって、私たちは中学3年になるまで業者テストは受けさせてもらえませんでした。当時の私たちは、業者テストの意味も知りませんでしたし、集団カンニングのような行為も、皆で一緒に勉強会を開いている、つまり「良いことをしている」と考えていたのです。本当に田舎者でした。
らというわけで、事件以後、しばらくの間、自分の実力が県下ではどのぐらいなのかわからなかったのですが、3年生になって業者テストを受けさせてもらったらかなり良かったのです。担任が父に「信和君は成績がいいので、地元の高校ではなく一関あたりの高校を受けさせたらどうか」とアドバイスしてくれました。父が「一関なんて言わずに盛岡一高なんかどうだべ」と尋ねたところ、担任は「うちの学校から盛岡一高を受けた者は、これまでだれもいないからわからない」(笑)と、こうです。

———盛岡一高といえば県内有数の進学校で、宮沢賢治や金田一京助、石川啄木などを輩出した伝統校でもありますね。

父は「男なら受けてみろ」でした。そのひとことで盛岡一高を受験し合格。盛岡で下宿して学校に通うことになったのです。故郷を出発する日、地元のJR大船渡線の小友駅に同級生が大勢集まって手を振って送りだしてくれました。あそこも津波で流されて、もはや鉄道は通っていませんが。

———まるで映画の一シーンみたいですね。