公益財団法人テルモ生命科学振興財団

中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

30の手習い、本庶研での日々

———本庶先生の研究室に入って、どう感じましたか?

それまでは医者として分刻みで、それこそ深呼吸する暇もないと思いながらやっていたけれど、本庶研の先生や院生たちは、中には夕方からしか来ない人もいたり、みんな自由なんですよ。それでしっかり成果を出している。自由に研究している姿がとてもうらやましくって、「研究者って貴族だな」と感じました。

———生活は変わりましたか?

医者をしていたころと同じように大変でしたね。本庶研での基礎の研究とともに、生活費を稼ぐために臨床医としても働いていましたから。とくに1年目は週に2回の病院勤めだったのです。患者さんがいるので待ったなしで朝早くから行かなければなりません。自分の子どもが熱を出しても「すいません、休みます」ということはできないので、熱を出した子どもに「とりあえず寝ていなさい」と言い残して出かけたことも。今考えると本当に危ないし、ひどいことをしたと思いますが、やむをえませんでした。

「大学院時代、子供を連れて研究室に出入りしており、周りの方々に迷惑をかけていたかも。 それでも学位を取れたのは、研究室のメンバーに支えられたから。私の後ろを振り返る余裕を持たねば、と 痛感した日々です」

———本庶研ではどんな研究に取り組んだのですか。

1年目はそんな状況ですから、研究に100%力を注げる状態ではなかったのです。最初に与えられたテーマは、alyマウスといって、日本で見つかった全身のリンパ節が欠損した突然変異マウスの抗体産生能力(からだに侵入してきた病原菌などを無力化する免疫物質を生み出す力のこと)や免疫応答などについて調べること。ラボメンバーのほとんどは、20歳そこそこから実験をしているけれど、私は30の手習いです。まずは教えられた手技をやってみることからスタートしました。

———研究は順調に進みましたか?

大学院の1~2年のころはうまく研究が進まなくて、研究を見てくれる中ボスの先生と喧嘩をしてしまったことがあるんですよ。そのとき本庶先生がその熱心に指導してくださっていた先生に、「きみ、今の彼女にそれを言っても無理やろ」と擁護してくださいました。もちろんそのあとで「ケンカは絶対するな」と叱られましたけれど。
3年次の終りぐらいになって、ようやく自分のペースがつかめるようになってきました。子どもたちも少し大きくなってきたので、家に子どもを置いて夜中に研究室に戻って研究することもできたし、研究のアイデアが次々にわいて、論文をこういうふうに書きたいと本庶先生に言うと、先生はニコッとして「やっとペースが出てきたか」とおっしゃった。先生は待っていてくださったのか、と思いました。大きな人だなとあらためて感じたできごとです。

———学位論文のテーマは?

alyマウスの免疫応答についてです。このマウスは成熟したT細胞、B細胞が存在するにもかかわらず、全身のリンパ節とパイエル板*が欠損しているため、免疫応答を起こす場を持っていないマウスなんですね。場がないとどうなるかというと、免疫応答がほぼ起こりません。免疫応答の場がないと、抗体がいろいろな種類に増えることができないということがわかったので、それを論文にしました。

*バイエル板:小腸の壁の内側の粘膜にある、直径数 cm 以下の楕円形をした組織。10~40個のリンパ小節が集まっていて腸内細菌など腸管内物質に対する免疫応答の制御に関わっている

———学位をとったあとは、臨床には戻らなかったのですか?

学位をいただいて、臨床に戻るより研究を続けたいと思い本庶先生に相談したところ、「次は何をする?」と聞かれました。真っ先に挙げたテーマは「まだ材料がないから難しい」と言われたので、「では、このalyマウスの異常を引き起こす原因遺伝子を見つけたい」と言ったところOKが出て、その研究を始めました。

———臨床より、研究の充実感が大きかった?

おもしろかったですね。結果が出なくてもあまりめげることはなくて、それよりもなぜ結果が出ないのか?ということを考える好奇心の方が強かった。疑問に思ったことを解き明かしていくプロセスや仮説を立てることがすごく楽しい。その楽しさは今も同じです。

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