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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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職探し中、夜中にかかってきた大隅先生からの電話

———その後、ヨーロッパに留学されましたね。

留学先はヨーロッパ分子生物学研究所(EMBL)のカイ・シモンズという細胞生物学の先生の研究室です。この先生も偉い人で、1975年のEMBL創設時からのグループリーダーで、世界中のメンブレントラフィックの研究者に影響を与えた人です。この先生のところに行ったのも、偶然なんですよ。

———どんな偶然ですか。

シモンズ先生と田代先生とは知り合いで、シモンズ先生が来日されたときに、田代先生から奈良を案内するよう頼まれたんです。夏で暑いときだったので半ばしぶしぶだったのですが、お会いしたらとてもおもしろい先生で、1日お付き合いして意気投合しました。案内している途中に何気なく「先生のところに行ってもいいですか?」と聞いたら、「来い」と即答してくださって、大学の事情があってすぐには行けませんでしたが、何年かしてから留学できました。
ところが行ってみて驚いたのは、ものすごく有名な研究室で世界中から研究者が集まっていること。希望者殺到のラボなので、厳しい選考を経てようやく研究員になれるんです。だれでもウェルカムなのかなと思ったら、実はそうじゃない。これもすごくラッキーでしたね。

———EMBLでの思い出は?

EMBLはドイツのハイデルベルクにあって、ヨーロッパ中から人が集まってきます。広大な国土が広がるアメリカと違って、ヨーロッパってあんなに狭いのに、国や地域によってキャラクターも文化も大きく違う。それがすごくおもしろかった。週末にはよくボロボロのBMWでほかの国に行きました。車を走らせているうちに隣の国になるというのは日本人の感覚にはなくて、それがとても新鮮でしたね。もうひとつ、ずっとほしかったFABER-CASTELL社の100色入りの色鉛筆が買えたこともうれしかったなぁ。

留学時代、家族とともに(1994年11月)

———2年間の留学後、いよいよ大隅良典先生のところでオートファジー研究を進めることになるわけですね。

オートファジーの研究を始めるのは、帰ってから1年ほど経ってからのことですが、これも人生の大きな転機のひとつでした。

———どんな経緯があったんですか?

ぼくが留学している間に田代先生が学長に就任されました。ところが、関西医科大学では学長になると教授を辞めなくてはいけないんです。そこで、所属していた教室に新しい教授が来られたんですが、その先生はまったく別の分野がご専門でした。留学から帰ったら知らない教授がいて、向こうも知らない助手が外国から戻ってきて戸惑われたに違いありません。挨拶に行ったら、「できるだけ早くどこかに移ってほしい」と言われました。

———ということは帰国した早々、転職先を探さなければいけなくなった?

職探しをしなければいけなくなって、あの時期がいちばんしんどかったですね。2人の子どもがいましたから、路頭に迷ったら困るなとけっこう必死になりました。ぼくはわりと能天気なほうですが、さすがにあのときはストレスのためか十二指腸潰瘍になりましたね。

———新しい所属先探しではどんなご苦労を?

とりあえずはツテを頼ってあちこちで講演をさせてもらったりしましたが、心配してくださる先輩方がたくさんいて本当にありがたかった。そういう中に大隅先生もいらっしゃったのです。大隅先生とは細胞生物学会で知り合って、以前からいろいろな相談にも乗ってくださったりしていたのですが、師弟関係のような深いつながりがあったわけじゃなかったんですよ。それがある夜、突然、大隅先生から家に電話がかかってきて、「君、岡崎に来ないか」とおっしゃるのです。

———基礎生物学研究所のある岡崎ですね。

あのときは突然の電話でどこのことかわからなくて、京都市立の動物園がある岡崎かな、動物園に誘われたのかなと思ったほどでした。大隅先生が基礎生物学研究所に教授として着任することになり、そこの助教授として来ないかというありがたいお誘いだったのです。「一日考えさせてください」とお答えしましたが、電話をいただいた時点で、岡崎行きを決意していました。

———オートファジーをご自身のテーマにしようという決意ですね。

留学を終えて日本に帰るとき、ぼくはすでに30代半ばでした。それまでずっと与えられたテーマでやってきて、何か自分のライフワークを決めなければいけない。留学先のボスのシモンズと雑談したとき、引き続きメンブレントラフィックをやりたいけれど、輸送網の主な経路はすでに海外で多くの人が研究していて、ぼくがやる隙間がないという話をしたら、シモンズ先生が「オートファジーがいいんじゃないか」とおっしゃるのです。細胞が自身の成分を分解するオートファジーもメンブレントラフィックの経路の一つで、1950年代に発見されていたものの、分子機構の解明が遅れていた分野でした。

———オートファジーは、今でこそノーベル賞も受賞した重要な研究として一般の人にも名前が知られるようになりましたが、当時はそれほど注目されていなかったということですか?

私が留学から帰ったのは1995年で、その数年前に大隅先生が飢餓状態にした酵母のオートファジーの様子を世界で初めて光学顕微鏡で観察され、その後、オートファジーに関係する最も重要な遺伝子群を論文で発表したのが93年のことでした。でも細胞生物学者の間でも大きな話題にはなりませんでしたね。
オートファジーはギリシャ語でオートが「自分」、ファジーが「食べる」で、「自食作用」と訳されます。大隅先生は岡崎に着任されてから「自食作用研究会」を立ち上げられたのですが、日本中から研究者が集まっても10人もいない。それこそ飲み屋の2階で、第1回会合が開かれる、そんな感じでした。私もいろいろな人に「自食作用研究会に来てください」と呼びかけたんだけど、ほとんど通じない。「辞職」と間違われて、「職を辞めさせる作用ですか」と言われたり、「就職できたのに辞職の研究か」とからかわれたこともありました。
だけど、手つかずの、それこそだれも足を踏み入れていない未知の大陸が広がっていることにわくわくして研究していました。その後水島昇くん(現・東京大学医学部/大学院医学系研究科・分子生物学分野教授)も加わって、動物でのオートファジーの分子機構などが次々に明らかになって、世界中でオートファジー研究がブレイクしていったんですね。

ノーベル賞授賞式・晩餐会に東京工業大学栄誉教授 大隅良典先生と出席(2016年12月10日)