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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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ニワトリの網膜の発生を研究

———京大理学部に入学すると、まずは理学分野のいろいろな科目を幅広く学ぶのですか?

はじめは専攻が決まっておらず、物理、化学、生物、地学、数学と全部の授業が選択できて、3回生に進むときにどの専攻にするかを決めるんです。ただ私は学部時代はあまりまじめに勉強せずに、アカペラサークルに入って歌ばかり歌ってました。実習はおもしろかったけれど、座学はそれほど好きになれなかった。

———学部時代で思い出に残っていることは?

英語に興味を持っていたし、海外に行ってみたい気持ちもあったので、家庭教師をして得たお金を貯めて、3回生のときに1カ月間、英語を勉強するためイギリスに行きました。
ボーンマスという、ロンドンから南西に2時間ぐらい行ったところにある地方都市で、ホームスティしながら英語を学ぶ学校に通いました。同じクラスにはドイツ人やイタリア人など、英語を母国語としないヨーロッパの人が多く、日本人のいない環境で英語でいろいろな話をするうちに、だんだん自信がついていったという感じでしたね。
学校が休みの日にはロンドンやパリにも行きましたよ。

イギリス短期留学のとき通った語学学校にて。

ストーンヘンジにもバスを乗り継いで訪れた。

———京大に入っても引き続き霊長類に関心を持ち続けていたんですか?

1回生のときに「ポケットゼミ」という新入生向けの少人数セミナーで、愛知県犬山市にある霊長類研究所に1週間ほど滞在しました。憧れの松沢先生に直接ご指導いただいたり、実際にアイが問題を解く様子を見せていただいたりもしたんです。その一方で、生物の授業を受けたら、高校までの生物とはまるで違い分子生物学がものすごく進んでいることがわかって衝撃でした。分子生物学は高校でも教えてもらいましたが、大学の講義では、10倍どころか100倍ぐらい世界が広がった感じで、勢いのある領域だと感じて、分子生物学に進みたいと思ったのです。

霊長類研究所で松沢先生(左)とともに(前列右)

———所属する研究室はどのようにして決めたのでしょう?

3回生のとき、5つぐらいの研究室を1カ月ずつローテーションで回って実習する「学生実習」というカリキュラムがあり、すごくおもしろかったのが竹市研*の実習でした。

竹市研:細胞間接着分子カドヘリンの発見者として知られる発生生物学者・竹市雅俊先生の研究室。1986年京都大学理学部生物学科教授。久保先生が学部生のころは、京都大学大学院生命科学研究科教授(総合生命科学専攻 多細胞体構築学講座 細胞認識学分野)。2002年3月退官。

———どんな実習でしたか?

実際に指導してくれたのは竹市研で助手をしていた中川真一さん(現・北海道大学教授)です。ニワトリの受精卵の中で発生した胚から神経組織をとってきて培養する過程で、神経を伸ばす因子を加えると突起がビロビロ―ッと伸びて、神経の形が変わるのが目に見えてわかるんです。加える因子によって突起が伸びたり伸びなかったり。どの因子によってどのように突起が形成されるのかを調べる実験でした。きちんと対照群をとるなど、実験の組み立て方も教えてもらい、「実験ってとても楽しい」と思ったことを覚えています。

———それで生物の発生に興味を持ち、竹市研に行こうと決めたわけですね。

実はもう一つ、植物の発生について研究しているところと迷ったんです。両方とも発生をテーマに分子生物学をツールとして取り入れている研究室で、どちらもおもしろかったんですが、心とか神経に関係したところがいいと、神経を研究できる竹市研に決めました。

———卒研のテーマは?

実習のときに手取り足取り教えてくださった中川さんが指導教官となり、ニワトリの目の網膜がどのようにしてできるかを研究しました。「エレクトロポレーション」といって、ニワトリの初期胚に電気刺激を与えて遺伝子を導入する手法があります。毎日卵をコンコン割ってひたすらニワトリ胚の目に遺伝子を導入していました。導入した遺伝子によって生じるさまざまな発生の変化を解析して、遺伝子の働きを明らかにするのがねらいです。

———研究は楽しかったですか?

中川さんの熱心な指導のおかげで、ラッキーなことに研究がうまく進みました。研究の最初の段階で、成功体験というか、仮説を立てて実験を繰り返すなかでねらった結果が出るというプロセスを体験できた。それを1回でも味わっちゃうと、「もっとおもしろいことをやりたい!」と思うようになるんです。

———すると大学院への進学も迷わず?

「もっと、もっと」と思って研究を進めるうち、結局、博士課程まで迷うことはなかったですね。

———就職しようと考えたりしませんでしたか?

修士課程を終えたとき、ちらっとは就職も考えたんですが、修士の2年だとまだちょっとしか習得できていないという思いが強く、もっと研究を極めたい、納得いくまでやりたいと続けることにしました。

———研究者になろうと思ったのもそのころですか?

博士課程の途中ぐらいだと思います。Gordon Research Conferenceという海外の学会に初めて行き、その分野の最先端の人たちと缶詰になって会議をする機会がありました。そのとき私の論文を読んだことがある人がいて、私はまだ駆け出しだったのですが、京大の竹市研という所属に関係なく、一人の研究者として議論できて、大きな世界が目の前に広がる感じがしました。
研究者になろうと思ったのは学部生のころに読んだ立花隆さんと利根川進さんの対談『精神と物質』の影響も大きいかな。研究ってこんなにワクワクすることなんだと、何度も読み返しました。
京大での卒業研究後、竹市先生が神戸にある理研CDB(多細胞システム形成研究センター、現在の生命機能科学研究センター=BDR)のセンター長になられたので一緒についていって、その後、直属の指導教官だった中川さんの独立に伴い、中川さんのもとで理研の和光に移り研究を続けました。京都から神戸、埼玉と環境は次々に変わったけれど、その土地土地でいろいろな人と出会えたのがよかったですね。