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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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二次試験1週間前に志望大学を変更

———高校でも生物部に?

高校には生物部がなくて、最初はテニス部に入ったんです。だけど1年経ってやはり生物を研究したくなって、ちょうど鵜澤くんも同じ高校だったので一緒に生物研究会を立ち上げました。略称が「生研(なまけん)」。2年生の初めで、1年のときに部活をやってなかったチャランポランな生徒が10人ぐらい集まりました。

———先生の指導はなかったんですか。

部活とは違う自主的なものでしたが、生物の先生がすごく理解があって、1人は動物、もう1人は植物が専門の先生で、お2人から本当にいろいろなことを教わりました。理科室での実験も自由にやらせてくれたし、山にも連れていってもらいました。
それまでは栽培は食虫植物が中心で、ときどき自生地に見に行ったりもしたけれど、山の中でいろいろな植物を見る経験はあまりなかったんですよね。山に行ったり、高校の裏の畜産試験場の跡地でタンポポの分布を調べたりしていくうちに、それらの類縁関係にも興味が湧いてきました。

———大学も植物研究ができる学科ということで決めた?

最初は食虫植物の研究の大家がおられる東北大学に行くつもりだったんですが、生物だけは得意だったけれど、ろくに勉強もしていなかったから落ちて、浪人して予備校に行ったら偏差値がうんと上がったので、翌年は当時憧れていた今西錦司先生のいる京大を受験。自信はあったんですが、失敗して2浪してしまいました。

———浪人生活はつらいですよね。

予備校に行っても同じ授業だからつまらないじゃないですか。高校の生物の先生から「植物の標本整理をするのでアルバイトしないか」と誘われて手伝ううちに、植物の分類が面白いなと思うようになったんです。ちょうどそのころ平凡社から『日本の野生植物』という分厚い 3冊ぐらいの図鑑が出て、それを見ながら植物の同定をしていったら、時間が経つのも忘れてしまうほど。
そこから分類学に興味を持って、牧野富太郎が採集した標本を所蔵する牧野標本館がある都立大学(現・首都大学東京)を受けようと考えました。共通一次も都立大学を第一志望で出していたら、父がたまたま千葉大学理学部教授で植物の形態や分類がご専門の西田誠先生に、「うちの息子は2浪もして分類学をやりたいと言っている」と相談したところ、「東大に京都大学から移ってきたばかりの岩槻邦男先生という分類の大家がいるから、東大を受けたらどうか」とアドバイスをいただいたのです。

———では都立大学から東大に志望先を変えたんですか?

変更したのは、それこそ二次試験の願書の締切り1週間前ぐらいですね。急に志望を変えて、受かったからよかったけれど。

———東大では1、2年は教養学部で、3年からの専門を決めるための進学振り分けがありますね。

なにしろ2年前半までの成績で希望するところに行けるかどうかが決まる。生物に行かないと意味がないから、もう浪人をしていたとき以上に勉強しましたね。

———サークル活動などは?

猛烈に勉強したと言いつつ、生物学研究会に入って、今、兵庫県の「人と自然の博物館」にいる鈴木武さん、東北大学の植物園の園長をやっている牧雅之さんの2人と知り合って、彼らがシダ好きだったものだから年間100日ぐらいシダの採集に出かけました。
クリスマスイブに大垣行きの夜行列車に乗って、大垣で乗り換えて紀伊半島の尾鷲まで行き、そこでシダを採ったり、さらには九州まで行ったり…。

———勉強がおろそかになったりはしませんでしたか?

その点、当時はいい時代でしたね。植物採集にちょくちょく出かけて必修の物理の電磁気学の授業を2回ぐらいしか受けてなかったんです。不可だと進学できない。試験はわからない問題ばかりだったんですが、マックスウェルの方程式を4つ書いて、あとは日本のシダ類についての考察を答案用紙に両面びっしり書いたら、単位がもらえました(笑)。

———シダのどこに魅力を?

最初はシダのことをよく知らなくて、そこがまた魅力でした。鈴木さん、牧さんの2人がいろいろ教えてくれて、知れば知るほど興味が湧いて…。ミドリカナワラビという緑色のきれいなシダがあるんですよ。3日でも見ていられるなぁ(笑)。

———採集したシダはどうしましたか?

古新聞に挟んで押し葉標本にしました。3万枚ぐらい作ったんじゃないかな。学生運動の余韻が残っている駒場寮の4人部屋に住んでいたんですが、部屋中に古新聞を並べて乾かしていました。その標本は今でもありますよ。珍しいシダが結構いっぱいあるんです。