公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

「なんて美しい論文を書く人がいるのか」と感動して決めたUCSF留学

———学位取得後に、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)に留学されました。留学先はどのように決めたのですか?

大学院を出たらもう一度留学したいという思いを強く持っていました。大学院2年生のとき、感動する論文と出合ったのです。UCSFのジェイソン・シスター(Jason Cyster)先生の論文で、皮膚炎を起こしたとき、皮膚からリンパ節に移動した樹状細胞がメモリーT細胞を集めるケモカインというサイトカインを出して、免疫応答を効率よく誘導するという内容の論文でしたが、すごく重要な仮説をエレガントに無駄なく解き明かしていて、こんな美しい論文を書く人がいるのか!と感動しました。ここのラボに留学したいと、大学院3年生のときにメールを出して、実際にアメリカに行ってラボを見学し、シスター先生ともお会いして留学の許しをいただいて、2年間待ってもらって留学したんです。

UCSF留学時代。憧れだったJason Cyster先生と

———シスター先生のラボではどんな研究を?

皮膚だけでなく、リンパ節とか骨髄などを含めた、より本質的な基礎の免疫学の研究に2年間携わりました。どんな研究かというと、免疫細胞がどの場所にどれぐらいの数いるかはある程度決まっていて、例えば皮膚にいるリンパ球は2×1010ぐらいです。なぜその場所にいて、なぜその数が維持されているのかについて、普通の状態とアトピー性皮膚炎のような炎症を起こした状態とで比べてみて、どういう状態だと免疫学的な恒常性が維持できるのか、あるいはできないのかを調べました。

———皮膚にいる免疫細胞って、どうやって観察するんですか?

免疫細胞が皮膚のどの場所にいるのかなんて目では見えませんから、生検によって皮膚を取ってきて、それをごく薄い4~5㎛のスライスにして顕微鏡で見るわけですが、三次元で見ることはできません。ところが運のいいことに、ぼくが所属したラボでは非侵襲で皮膚を取らなくても三次元で見られる新しい二光子励起顕微鏡の技術を開発していて、しかもそのとき、ぼくと同じタイミングで、今は理化学研究所の生命医科学研究センターでチームリーダーをやっている岡田峰陽(おかだ・たかはる)さんがUCSFに留学していて、二光子励起顕微鏡の立ち上げをやっていたんです。彼がいてくれたおかげで皮膚を三次元で見る生体イメージングの研究に取り組めるようになり、帰国後もこの研究を続けており、この分野ではずっと世界のトップです。

皮膚の三次元での可視化。黄色:血管、赤:リンパ管、青:毛穴に存在する毛と脂腺

———UCSFからの帰国後は、京大には戻らずに産業医科大学の戸倉新樹(とくら・よしき)教授のもとで准教授をされますね。

戸倉先生は皮膚免疫研究の第一人者です。ぼくがUCSFに留学する前、先生は浜松医大の准教授から新しく産業医科大学の教授に就任されることが決まっていて、大学院が終わったらすぐに産業医科大に来てほしいと声をかけていただきました。でもぼくとしては何とか留学はしたいと思っていたので、「2年間だけ待ってください」とお願いして、留学後に産業医科大に行ったというわけです。

———産業医科大は京大とはだいぶ雰囲気も違うと思いますが。

産業医科大に行ったことはぼくにとってはけっこう大きな転機だったといえます。というのは、京大は研究をする環境として非常に優れたものがあるのに対して、産業医科大は研究も必要だが臨床をしっかりやることが大事というように、価値観がだいぶ違うわけです。朝から晩まで患者さんのために働くことが重視されるので、産業医科大にいたのは3年弱ですが、自分がなぜ医者になったかの原点に改めて立ち戻った3年でもありました。

———研究より臨床のほうが忙しかった?

というより、京大にいたときは研究と臨床があまりうまく結びつかなかったといえるかもしれません。アトピーの研究をしたいと思っていても、実際には患者さんと接するより、どちらかというとマウスとばかり付き合っていた気がします。また産業医科大の若い人たちも、臨床を一生懸命やる中で、自分たちの研究テーマを持っていて、できれば学位を取りたいという熱意を持った人が何人もいました。彼らのサポートをする中で、臨床と研究を結びつける大切さを実感することができましたね。

———産業医科大での経験がプラスになったわけですね。

患者さんの採血データを使ったり、尿のデータを使ったり、皮膚生検をしたときの余りのサンプルを使ったりして、より病気に近いところで研究できたことが、のちのち役に立ちました。
それともう一つ、こんなふうにも言えます。ぼくは戸倉先生から乞われて行ったわけですが、考えようによっては京大から臨床重視のところに行ったら研究が進まなくなるかもしれない。でも人間って、どちらかを選択しないといけないときがいろいろあると思うんですが、ぼくはできるだけ簡単じゃないほうに行きたいと思っているんです。さらには、人の縁というか、自分が求められていればあえてそこに行く。そういうことも選ぶ基準になっているかもしれませんね。

———あえて困難を選ぶということですか?

楽観的なんですよね。イヤな思い出って人生の中ではあまりなくて、イヤなことがあっても忘れてしまう。そういうレセプターが欠損しているのかもしれません。でも、前向きであることってすごく大切だと思うんですよ。大学受験に失敗して浪人したときも、「ああ、これで自由に1年間、好きな勉強ができる」と思っていました。