公益財団法人テルモ生命科学振興財団

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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

言葉の壁に苦しんだ留学。仕事をすることで乗り越えた

———博士課程を終えたあと海外留学されましたが、最初から留学を考えていたのですか?

うーん、それほど英会話が得意じゃなかったんですよね…。もちろん、読み書きはできましたけど。それに、海外で暮らすなら、場所によっては必要な運転免許も持っていませんでした。研究室の先輩方が留学していたので、留学する道もあるということは頭ではわかっていたものの、何となく、「ちょっと面倒くさいな」という気持ちがありました。

———では国内で研究の仕事を探したんですか?

ところが当時は国内でポスドクを募集している研究室がほとんどなかった時代だし、日本のどこかの研究所のポストに就くにしても、日本学術振興会の特別研究員など何らかのフェローシップ(奨学金)が必要でした。応募しても結果が出るまでに半年以上かかりますし、必ず合格するという保証もありません。そこで、国内の研究機関に応募する一方で、念のため探してみようかという気持ちで考えたのが海外留学でした。

———留学先探しでの苦労は?

今みたいにネットのある時代ではないので、頼りにしたのは口伝みたいなものでしたね。だれだれがかつて行ったことのあるところとか。科学雑誌の『ネイチャー』のうしろの広告を見てもそれほどたくさん載っているわけではないし、世界中の無数にある研究所の中から自分に合うところを探し当てるなんて、それこそ宝くじに当たるみたいなことでした。 当時、同じ研究室にいた講師の飯野雄一さん(現・東大理学部教授、1993年~1998年まで東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻講師)に相談したところ、「ポール・ラッセルのところがいいんじゃないか」というので手紙で(!)応募して、奨学金を自分で獲得できれば来てもいいという返事をもらいました。これも結局はご縁ですね。生活に車が必須ということで、論文を仕上げるのに非常に忙しい時でしたが、博士課程の3年生の秋に運転免許を取りました。博士号を取得した後、留学先の研究室のスペースに空きが出るまでの半年間、東大の医科学研究所の竹縄忠臣先生の研究室で日本学術振興会の特別研究員として研究をさせていただきました。

———留学されたスクリプス研究所ってどんなところですか?

カリフォルニア州のサンディエゴにある民間の研究所です。寄付で成り立っていて、付属の病院や大学院もあるものすごく充実した研究所です。海岸沿いに立っているので毎日太平洋に沈む太陽を見ることができて、とてもきれいで、抜群の環境でした。サンディエゴは治安もよかったし、日本人も多くて、日本人同士が助け合ってたまに集まったりしていました。

研究所そばの海岸で(右から二人目)。左端がポール・ラッセル先生

———ポール・ラッセル先生はどんなタイプでしたか。

山本先生とけっこう似ていて、これをやれ、あれをやれと言わない人で、「勝手にテーマを考えたら」みたいな感じの先生でした。さらに、二人ともよく似ているのは、最後の最後は厳しいんですよ。変なデータを出したりすればたちまち怒られます。要するに、研究がうまくいかなくて論文を書けなくても、それはあなたのせいということですよね。結局、一番厳しいやり方なんです、放任というのは。
でもやっぱり山本研でもポール・ラッセル研でもまわりの人が優秀で、放任されているからとサボる人は全然いなくて、みなさん自分で考えてせっせと実験する人たちばかり。その点、ものすごく勉強になりましたね。このポール・ラッセルの研究室でも女性が半分以上いて、ものすごく刺激を受けました。

———言葉の問題は?

そこが一番の壁で、最初は研究室のメンバーが何を言っているのか全然わからなかったです。生の英語は日本で聞く英語とは全然違います。やはり聞き取りがだめでしたね。

———その壁をどうやって乗り越えたのですか?

たいていの日本人がそうだと思うんですけど、これはもう仕事をして認められるしかないというやり方です。研究の世界は、最終的には実験のデータがすべてなので、それほど会話ができなくても何とかなるというのは救いでした。もちろん、できるだけ研究室のメンバーと出かけたり食事をしたりして、生のくずれた英語に慣れるように頑張りました。不思議なことに、留学して1年半後に急に聞き取りが良くなりました。

———ラッセル研ではどんな研究に取り組んだのですか?

扱っていた生き物は分裂酵母で山本研と一緒ですが、同じことはやりたくないと考え、細胞周期の制御機構について研究しました。もともとボスのポール・ラッセルは、細胞周期の研究でノーベル生理学医学賞を受賞したポール・ナース博士のお弟子さんですから、由緒正しき血統というか、細胞周期の研究をするならラッセル研という感じで、留学中の前半は細胞周期がどう制御されているのかを研究し、後半はDNAが損傷を受けて細胞周期を一時的に止めるときのチェックポイントについて研究をおこないました。

———フリーの時間はどんなことをして過ごしましたか?

実験の合間はテニスでしたね。最後の1年は毎週ポール・ラッセルと対戦して、ずっと私が勝っていました。私が日本に帰るときも「最後にまたやろう」というのでプレイしましたが、ほかのポスドクから「純子、最後ぐらい負けなきゃだめよ」と言われて、だからというわけではないんですが、本当に最後は負けちゃいました(笑)。あと、サンディエゴはゴルフコースがたくさんあったので、ゴルフも習っていました。スポーツだけでなく、ポスドクで集まってアメリカの国立公園を巡る旅行に行ったり、誰かの家でホームパーティーをしたりしていましたね。

———留学はいつまでと決まっていたのですか?

サンディエゴって一度行ったら帰れないところなんですね。一年中温暖な気候で、治安もよくて安心して住める。研究も楽しい。だから、まわりのポスドクはみんな延長、延長で、できるだけ長くいたいと思ってしまい、人生を狂わせるところです(笑)。私も、もっといたいなと思ったりもしましたが、あるポスドクからこう言われたんです。「ちょっとぐらい延長したところで、あなたは永久にここにはいられないでしょ」って。いつかは帰るんだったら若いうちに早く帰った方がいい。そのほうが希望する職にもつけるだろうしと、お尻を叩いてくれました。

———結局、留学期間はどれぐらいだったんですか?

96年から99年までの3年間でしたね。研究は何とかうまくいって論文を出したし、年齢はまだ30歳。英語をペラペラしゃべれるわけじゃないし、アメリカで独立するのはちょっと自分にはきついなと思っていて、それなら帰った方がよかろうと…。

———留学で得たものは?

ポール・ラッセルの研究室は世界中からエリートが集まってきていました。だからアグレッシブな人が来たりすると、テーマの取り合いが熾烈で…。私のテーマは他のポスドクたちとはちょっと離れていたので、その戦いには巻き込まれず蚊帳の外だったんですが、みんな次のポジション(職)がちらついてくる年ごろで、「今このテーマをやらないといい論文が書けない」と必死なんです。それまでの私は、のほほんと、研究が好きだなおもしろいなでやってきていたんですけれども、そんな激しい争いを見ていると、今が将来に直結しているという気迫が私には全然足りていなかった、研究者として子どもだったなと思い知らされました。

学会での留学時代の国際分裂酵母学会でのポール・ラッセル研同窓会。ロンドンのラッセルスクエアにて。赤いシャツがポール・ラッセル先生。当時のメンバーはみな世界中にちらばり、自分のラボをもって活躍中。
「日本国内だけではない交流が、研究を続けていく上で非常に重要です」と加納先生