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中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

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「NHKのディレクターになろうかな」と思ったことも

———学生生活はエンジョイできましたか。

大学ではテニスサークルに入りました。サブキャプテンもやらせてもらって、毎日テニス漬け。これでは理学部の生物化学科に行けないのではと思ったぐらいだったんですよ。

理科2類時代の授業前風景(右端)

理科2類のクラスコンパ風景(左端)

テニスサークルの写真(前列左端)

———東大は2年前期までの成績による「進学振り分け(現在の進学選択)」がありますからね。理学部の生物化学科は難関だったのですか?

私にとって理学部の生物化学科は当時の憧れだったんですね。純粋のサイエンスの最先端、生物の最先端の先生が集まっていて、奇跡的にギリギリで通ったときは、東大に合格したときより何倍もうれしかったです。せっかく生物化学科に入れたのだからしっかり研究しないと罰が当たると思って、せめて修士課程までは行こうと思ったけれども、その先のことはあまり考えていませんでしたね。

———研究室は、分裂酵母を用いた減数分裂の仕組みの研究で有名な山本正幸先生の研究室を選んだのですね。山本研究室を選んだ理由は?

私は最初から「ここしかない!」と言って決めるのではなくて、どの研究室に行ってもたぶん興味をもって研究できると思っていました。ただ、自分にとって雰囲気が合わないところはいやだな、とだけ思っていました。どの研究室に入ろうか、とぼんやり考えながら訪問した最初の(結局、唯一の)研究室が山本研究室でした。山本先生は私が卒業研究に入る前までは白金台にある東大の医科学研究所におられたので授業は一度も受けたことがなかったんですが、何かの発表会のとき、椅子の上にちょこんと正座していらした山本先生を見て、「何だかほんわかしているな」と思ったのが先生についての最初の印象です。

———では、研究の内容というより、先生の人柄を見て研究室を選んだのですか?

私が見学に行ったとき、先輩の大学院生たちと話す機会があって、「ここはオススメだから」と言われたこともあります。正直に言うと、研究内容がこれじゃなければ、というより、フィーリングというか、雰囲気で選んだのは確かですね。こういう選び方は、多くの指導教員にとってあまりうれしいものではないかもしれませんが。

———進路選択で迷ったとき、そういうフィーリングって意外に大切かもしれませんね。

結局、私は、ここに至る人生を振り返ってみても、何かを選ぶときにどうやって選んでいるかというと、仕事の内容そのもので選んでいることはほとんどなくて、勘というか雰囲気とか、ご縁みたいなものを感じて選んでいるのが99%ですね。でも、選んだからにはそこで一生懸命がんばって結果を出す。そうやって常に前を向いて全力で頑張ってきたので、これまでの選択に決して後悔はしていません。

———山本研では、分裂酵母を使ってどんな研究をなさったのですか。

分裂酵母は単細胞の真核生物です。染色体DNAが約1400万塩基対と、真核生物の中では比較的小さく、染色体の数も三本しかありませんが、高等真核生物が持っている基本的な性質をほとんどすべて備えていることから、モデル生物としてよく使われています。
分裂酵母は周囲の栄養条件が良いときは体細胞分裂による無性生殖をおこなって増殖し、栄養条件が悪化して飢餓に陥ると、体細胞分裂をやめて減数分裂を開始して胞子を形成する有性生殖をおこなうというように、無性生殖と有性生殖とを使い分けています。その使い分けがおこなわれるとき、どのようにシグナルが伝わって増殖の方法を変えるのか? その分子機構の解明をテーマにして研究しました。

卒研(山本研究室)時代の実験室で。左から、飯野雄一さん(現、東大教授)、杉本亜砂子さん(現、東北大教授)、國友博文さん(現、飯野研准教授)、加納先生

———それは山本先生から与えられたテーマだったんですか?

山本先生は本当に放任主義で、最初のテーマも、山本先生が考えるというよりも先輩のだれかが考えて、いくつかの候補の中からどれをやりたいかを選びなさい、という感じでしたね。ちょっとひどい話なんですが、私の同級生が修士論文の発表会のときに「ああ君、こんな研究をしていたのか」と言われたほどでしたから。でも、たとえ放任されても、いえ放任されているからこそ、自分でテーマを考えて、自分の力でなんとかしていかなければいけない。そのことを山本先生は教えてくださったのだと思います。まあ当時の山本研究室には、力のある学生が多かったからそれが成り立ったんでしょうが。決してだれも救ってはくれない、自分の身は自分で守らないといけないという処世術を、大学院時代に学んだ気がしますね。今の私があるのも、この時の放任主義の教育のおかげだと思っています。

———山本研究室はどれくらいの規模だったのですか?

20人をちょっと超えるぐらいで、ほとんどの大学院生が博士課程に進学するような、けっこう大きな研究室でした。

———女性の割合は?

そこがポイントなんですが、山本研は女性が半分ぐらいを占めていたんです。みなさん優秀で、バイタリティあふれる人ばかり。おかげで特に男女とかを意識することもなく、それどころか女性差別が起きようものなら大暴動が起きそうな研究室でした。それが今の私を支えてくれていますね。元気な先輩や後輩の女性たちから今も叱咤激励されています。本当に私の宝物です。

山本研究室の遠足(右端から2人目)。中央の白いジャケットが山本先生

大学院時代 1994年12月、実家でのホームパーティー。山本研メンバーの一部と交流のあった研究者の方々とともに(最前列右端)

———修士のあと博士課程に進むときは悩みましたか?

同級生の一部が就職活動を始めていて、就職も考えないではなかったんですが、企業の研究所などはまったく行く気がなくて、それだったら東大で研究を続けた方がいいと考えていたんですよね。もし就職するなら別の職種だなと思っていて、一つだけ気になるところがありました。

———どこですか?

それがNHKだったんですよ。中3のときに見たNHKスペシャルの記憶が蘇ってきて、ディレクターになりたいなと思ったことがありました。私って、「これってすごくおもしろいんだよ」って人に伝えるのが大好きなんです。だからNHKスペシャルみたいな番組をつくりたいと思って、実際、NHKに見学に行ったこともあります。

———それで、いかがでしたか?

そこで言われたのが、「加納さんね、せっかく東大のいい研究室にいるのに、わざわざやめて、文系でもできるようなディレクターをやるのはよしなさい」ということでした。番組をつくりたいなら、研究者になってメインキャストかアドバイザーとして参加すればいいと言われて、まったくその通りだと思って、しっかり研究しようと思いましたね(笑)。