profile
加納 純子(かのう・じゅんこ)
兵庫県生まれ。91年東京大学理学部生物化学科卒業。96年同大学院理学系研究科生物化学専攻修了。理学博士。96年から99年まで米スクリプス研究所研究員。東京工業大学生命理工学研究科助手。京都大学生命科学研究科助教を経て、09年大阪大学蛋白質研究所特任准教授。13年同研究所准教授。20年4月より現職。趣味は料理、写真、音楽(聴く、奏でる)と多彩。また、熱烈なフィギュアスケートファン。
東大、京大どちらも合格。選んだ進学先は・・・?
———小さいころはどんなお子さんでしたか?
3人きょうだいの3番目で、上は兄2人。「女の子らしく」というプレッシャーもなく、けっこう放ったらかされて育ちました。私が小学校4年のころに母が大学院に入り直したので、家にいないことも多く、やりたい放題に過ごしていましたね。

幼いころ。母方の祖母と

幼稚園時代の家族写真(左)
———お母さんはなぜ大学院に?
兵庫県に住んでいましたが、父は仕事の関係で私が幼稚園から高校2年のころまで東京で単身赴任をしていたんです。だからずっと母が一人で子どもを育てていて、私が小学校4年生になったので、そろそろ子育ても終了ということで大学院への進学を決意したそうです。母は、私たちが塾に通って熱心に勉強しているのを見て「うらやましくなった」と言ってました。それに私の母世代は、戦争や「女性は二十歳過ぎたら結婚」という世相の影響で、思う存分勉強できませんでしたから。
———大学院に行き始めたお母さんをどう思いましたか?
子ども心に感じたのは、「勉強って大人になるとしたくなるんだな」ということですね(笑)。
———お母さんがうらやむほどだから、子どものころから勉強が好きだった?
小1から塾に通っていて、勉強はまぁできたほうだと思います。でも、勉強以外も好きで、ピアノや絵も習っていました。
———中学、高校は関西で最難関の女子校の一つとして知られる神戸女学院ですね。どんな高校生活でしたか?
部活では最初、テニス部に入ろうかと思ったんですが、神戸女学院のテニス部はすごく有名で、あまりにも練習が厳しそうなのでやめて、クラシックギター部に入りました。その代わり、週末にテニススクールに通ってテニスを習っていました。

神戸女学院中学部入学式
テニスとギターとでは、まるで違う世界ですね。
何でもやりたい、好奇心旺盛な時期でしたからね。
———高校生ぐらいになると理系か文系かでコースが分かれると思うのですが…?
神戸女学院の場合、受験指導を一切しないので、クラスが文系・理系に分かれるということはなかったんです。では、いつ自分が理系かなと思うようになったかというと、正直、今でも自分が理系という意識はなくて、当時も大学は文系理系どちらでもいいと考えていました。得意科目は英語と数学で、理科じゃなかったですね。物理の授業はつまらなかったですし…。私にとって大切だったのは、理系か文系かではなくて、おもしろいかどうかだったんですね。
———でも、大学進学ではどちらかを選ばないといけない…。
きっかけになったのは中3のときに観たNHKスペシャルの番組で、バイオテクノロジーがテーマでした。生命の神秘を感じたし、バイオテクノロジーという言葉が出始めたころで、遺伝子組換えの技術なども紹介されて、とてもおもしろそうだなと思いました。番組の中で、たしか東大の女性研究者だったと思うんですけど、ご自分の研究をすごく楽しそうに話しているのを見て、「これはきっとおもしろい世界に違いない」と感じたことを覚えています。
———それで大学は理学部の生物系に進もうと思ったわけですね。
それなら生物で大学受験すればいいと思うじゃないですか。でも、そこで生物を選択してしまうと、たぶん一生物理をやらないと思ったので、あえて物理・化学で受験しました。もっとも、受験勉強でもやはり物理はおもしろくなかったけれど。きっと自分の理解不足のせいですが。
———大学受験の思い出は?
私の受験の年は、“受験機会の複数化”ということで戦後の受験地図を一気に塗り替えるような入試改革が行われ、東大と京大の入試日程が違っていたことから、両方を受験できたんです。おかげで猛勉強が必要でしたが、両方受けて、両方とも受かりました。
———選んだのは東大の理科2類でした。東大に決めたのはなぜですか?
関西にずっといたので、一度は東京を見てみたいという気持ちがあり、東大を選びました。今でもそれは後悔していません。どちらの大学がいいとか悪いとかではなくて、関西の人間も一度は東京に出て異文化を味わうのがいいと思います。東大では同級生が優秀で、友だちに恵まれたことも良かったですね。