中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

アメリカに渡って義肢装具の新たな技術を身につける

中村ブレイスは、1974年にこの大森町で中村俊郎社長の手によって創業された。中村社長が義肢装具と出合ったのは、高校を卒業し就職先を探していたとき、病院に勤めていたお姉さんから京都の義肢製作会社を紹介されたことだった。

その会社では京都大学の大学病院に毎週のように義肢を納めていた。定期的に病院を訪問した中村社長は、病院の先生方から義肢の使い方やギプスの巻き方など現場のさまざまな知識を教わると同時に、「まだ日本にはちゃんとした義肢装具をつくる技術がない。君は若いのだから海外に渡って最先端の技術を勉強してきたらどうか」とアドバイスを受けたという。
「京大医学部の若い先生方は、みなさん向学心に燃えていました。私もそうした先生方の情熱に触発されて、よし、アメリカで義肢装具の勉強をしようと決意したのです」

中村社長

中村社長

京都の義肢製作会社で働いていたころ

京都の義肢製作会社で働いていたころ

当時は今とは違って、日本から海外に出ていくことが珍しい時代だった。最初は短期間の滞在だったが、義肢装具の会社を営んでいる日系人のイシバシさんと出会い、イシバシさんの会社で働きながら技術を身につけるように勧められ、翌年再びアメリカに向かった。
「当時の日本の義肢装具の製造は、見よう見まね、ある意味器用さでつくっているところがありましたが、イシバシさんは、ドイツ系アメリカ人の先生について理論を学んだこともあって、力学的な理論をベースに全体を構成していく。そうした方法を厳しく教え込まれました」

中村社長は、さらに上級の技術を学ぶため、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のメディカルスクールに通うことにした。
「ここではナースや義肢装具士を養成するコースがあり、国家資格を取得することもできました。ただ、メディカルスクールの医学用語は理解できなくて苦労しましたね」
アメリカ滞在中、中村社長は自動車事故にあい、生死の境をさまよって、一時、霊安室に入れられるなどという体験もした。しかし、持ち前の明るさとチャレンジ精神で義肢装具の理論を身につけていった。義肢装具士のコースを終えると、立派なリハビリ施設を持つ病院で子ども用の義肢づくりを学ぶこともできた。

中村社長は、アメリカで習得した義肢装具の技術を日本に持ち帰って活かしたいと考えた。
「問題はどこで会社を立ち上げるかです。普通に考えれば、多くの病院がある東京や大阪、京都といった大都市で立ち上げるのが有利だと思いますが、私は郷里の大森町で起業することにしました。江戸時代、幕府直轄の石見銀山として栄えたこの町も、その当時は見る影もなくさびれた町になっていました。しかし大森町にかつての輝きを取り戻したい、田舎町でもいずれは世界に向けて発信できる会社にしようと大きな夢を掲げました」
こうして1974年12月に、大森町の自宅の納屋で創業したのが中村ブレイスだったのだ。会社は立ち上げたものの、お客さんはほとんどおらず、最初の仕事は腰痛もちの親戚の伯父さんのためのコルセットづくりだった。コルセットを身につけた伯父さんは、「これは軽くていい」と大いに喜んでくれたという。このコルセットの評判がよく、口コミで広がっていった。

アメリカの義肢装具会社の同僚たちと

アメリカの義肢装具会社の同僚たちと

創業の日。10坪ほどの納屋を改装して看板を掲げた

創業の日。10坪ほどの納屋を改装して看板を掲げた

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